週末列車

  • 2012.05.28 Monday
  • 19:21
 

都心から遠く離れた場所を走る、週末の午後の列車の中は、宿主を失った遊園地のように静かで、その速度は、車窓の向こうの快晴の空に浮かぶ雲の流れよりも遅いように思えた。ガランとした車内では、読書をしている人や新聞を読んでいる人、窓から射し込む午後の光の中で眠りに落ちている人、それぞれがそれぞれのひだまりの中で一時の休息時間を過ごしているように映った。そして僕もこれといって何をすることもなく、そんな人たちをただぼんやりとした頭で眺めながら、軽い眠りに落ちようとしている時であった。

ある駅で、幼い兄妹二人を連れた見た目四十半ばくらいの父親が乗車してきて、その父親と二人の幼いこどもたちは、僕の斜め前の席へと座った。やんちゃ盛りのこどもたちはしばらくの間はじっとおとなしくしていたものの、やがてじっとしていることにも飽きて窓の外へと顔を向けると、足をバタつかせ始めて、小さな腕を振り回すように父親の頭をパチンパチンと叩き始めた。その鈍くも乾いた音は、週末の閑散とした車内で奇妙に高く響いていた。父親は何かを考えているのか、そんな無邪気なこどもたちの小さな手を払い除けようともせずに、微笑ともつかぬ笑みを浮かべながら、少しうつむきがちにこどもたちの好きなようにさせていた。

そのうちに好奇心と遊び心を抑えきれなくなったのであろう小さな兄のほうが、座席から離れて車内をバタバタと走り始めると、もう一人の幼い妹もそんな兄を追うようにその後を走り始めた。そしてひとしきり賑やかに車内を走り回った後でその兄妹が父親のもとへと戻ってくると、今度は靴を履いたままの格好で座席に立ち、まるでトランポリンでもするかのように、きゃっきゃっとはしゃぎながらぴょんぴょんと激しく飛び跳ね始めた。するとさすがに読書を妨げられてしまった乗客や、眠りから覚まされた乗客から、ちぇっ、うるせぇなぁ、などという声が聞こえてきて、その兄妹やその父親を怪訝な面持ちで見つめ始めた。

僕はそんな雰囲気の中でも何も言わずにただその成り行きを黙ってうつむいているだけのその父親を不思議に思ったが、そんなふうにトランポリンごっこをしていた兄妹がちょうど僕の目の前で激しく絡み合って転んでしまったので、大丈夫?と幼い女のコのほうに声をかけて手を貸してやりながら、その小さな体をさすった。幸い兄妹共に怪我はなかったが、それでもそんな自分のこどもたちに対して心配どころか注意一つ促そうとしないその父親に対して、僕はその父親の肩を軽く叩いて、

「お父さん、注意しなきゃ」
と、自分なりの穏やかな口調で忠告したのだった。

すると父親ははっと我に返ったように顔をあげると、
「あ、すいません!今すぐ止めさせますから、す、すいませんでした」
と少し震えた声で僕に謝ったあとで、おいおまえたち、静かにしなさい、ここはおまえたちの家じゃないんだよ、と優しく諭してその幼い兄妹を傍に引き寄せながら、小さな靴の痕がまばらに残った座席シートを手で払いながら、まだらにいる乗客や僕に向かって申し訳なさそうに頭を下げた。

父親は、泣いていた。
 
近くで見たその父親の瞳は、何日も寝ていないかのような充血した目をしていて、何日も剃っていないかのような不精髭が顔中をまばらに覆っていた。僕は驚いて男の顔を思わず凝視したが、そんな中、まだ遊び足りなさそうな幼い兄が父親の腕の中からするりと抜け出したと同時に、傍にいた妹の手をとって車両の一番端へと走りだし、今度はきちんと靴を脱いで座席シートに座って、兄妹揃って窓へ鼻をぴたりとくっつけるようにして流れる外の景色を静かに眺め始めた。

幼い兄妹が父親の傍から離れて一人で座っている格好になった父親は、それからすいません、と僕に言って再び床に目を落とすと、握りしめた父親の拳に涙がこぼれた。

僕は、それが余計なお世話かどうかもうまくわからないまま、どうかされたんですか?と、今にも嗚咽をこぼしそうに肩を震わせている父親に戸惑いながらも言葉を掛けた。
父親は、すいません、すいません、とずっと口にして、僕は、いやいやそんな、といったふうに掛け合っていたのだが、それからしばらくの沈黙の後、その父親はこう僕に話し始めたのだった。

「あの子たちの母親が、ついさっき病院で亡くなったんです。私自身どうしていいのか分からなくて、あの子たちにどうやって母親の死を伝えたらいいのか、頭の中が真っ白になってしまって…どうもすいませんでした」

僕は思いもしないその父親の言葉に言葉を失って、どう言葉をかけていいのか分からずに言葉を探したが、その瞬間に再び兄妹が遠くで騒ぎ始めて父親は立ち上がると、今、止めさせますから、と言ってこどもたちを制止しにゆく姿をただ黙って見ていることしか出来なかった。おい、お前たち、おとなしく座ってなさい、と注意を促し、その幾分頼りなさそうな両手で幼いこどもたちを引き寄せ、まだ自分の母親の死に気付いていないその幼い兄妹は、無邪気にはしゃぎながら父親の腕の中で暴れていた。父親は、しきりに僕に向かって頭を下げていた。

僕はその父親にかける言葉もタイミングも失って、やがて静寂を取り戻した車内で、僕の心臓の音だけが大きく鳴り響いているような気がした。そしてたまらなく心ない言葉をかけてしまったような気がして所在ない気持ちに包まれた僕は、その父親の肩を軽くさするように手を乗せたあとで、降りるつもりもなかった次の駅で下車した。ゆっくりと電車が走り去ってゆく時も、幼い兄妹を両手に抱えた父親は、プラットホームをゆっくりと歩く僕に向かって、いつまでも頭を垂れていた。

父親と幼い兄妹を乗せた電車が消えて見えなくなると、僕は一人プラットホームに残されて、どうしようもなくやりきれない思いと後悔に似た気持ちに苛まれて、傍にあったベンチに座り込んだ。例え月並みであろうと、がんばってください、と一言声を掛けるべきだったのか、元気を出してください、しっかりしてください、と僕はあの時父親を激励するべきだったのか、僕にはよく分からなかった。それはどれもこれも偽善的で薄っぺらな言葉なような気がしたし、それ以上に僕の心はあまりにも頼りなく、波に飲まれて今にも沈没しそうな小さな船のように揺れていた。けれどももしそうだとしたら言葉はなんのためにあるんだろう、思いやりとはどんな場面で自分から出てくるものなんだろう。波に飲まれて今にも沈没しそうなのはあの父親の心のほうに違いないのに、僕はひとり、その船から逃げ出して海へと飛び込んでしまったのだ。
 
僕は、そこが喫煙禁止場所であることを知りながらも、ポケットから煙草を取り出して吸いたくもない煙草を吸った。するとどこからともなく箒とちりとりを持った駅員がやってきて、お客さん、ここは禁煙ですよ、と僕に注意を促して、僕は、すいません、と謝って、そのちりとりの中に火のついた煙草を押し込みながら消したことを確認すると、今日はいい天気ですなぁ、と言って笑いながら、駅員はカランカランとちりとりの音を立てながら去っていった。僕は次の電車がやってくる時刻を調べるために立ち上がって時刻表を探してみると、次の電車がやってくるまでにはあと三十分も時間があったので、自販機で缶コーヒーを買って再びベンチに戻り、それを飲みながら目を閉じた。あの親子のこれからの行く末だけに心を巡らせていたわけではないけれど、まだ僕の心臓はドキドキと音を立てていた。

だけれども、その心臓のスピードであの親子の乗る電車に追い付くことなど出来やしない。僕たちの住む世界に溢れる後悔という物体の速さは、いつも後々になってその速度を増す。それは少し力を振り絞れば追い付けない速さではないはずなのに、いつだって追い付くことが出来ずにいて、こうして天気のよい日にただただベンチに座り込んでいるだけのような時を過ごす。あの幼い兄妹が、パチンパチンと父親の額を叩いていた鈍く乾いた音が不意に頭の中にこだまして、そんな中、この広い空と流れる雲を眺めていたら、今傍にあるあらゆるものが泣きたくなるような愛おしさに包まれて、僕は携帯電話を取り出して恋人に電話をした。

「どうしたの?」
「いや、ちょっと声を聞きたくなったんだよ」

僕は周りにさきほどの駅員がいないことを確認すると、再び煙草を取り出して、それを吸いながら次の電車を待っていた。

あの父親の涙の残像を追うように、彼らの後ろを走る電車を待っていた。

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