門の音

  • 2018.12.13 Thursday
  • 20:25
姉との約束の時間をゆうに過ぎたというのに、三年振りに会った父の運転で、懐かしい地元の町を車で廻ってもらった。つい最近、父がこじんまりとしたアパートに引っ越した、との話を姉からの電話で知り、そんなことは父から一言も聞いていなかったし、我々家族四人が暮らしていた家に父一人で暮らすには確かにいささか広すぎるとはいえ、僕と姉に何の相談もせずに、長年住んだ愛着ある家を黙って手放すなんて信じられない!と、驚きと呆れがこんがらがって、この気持ちを何と表現しようと思ったが、父が今度引っ越したアパートで簡単な引越し祝いをするからあんたも久しぶりに顔ぐらい出しなさい!との姉の言葉に、それはもちろん行くよ、と言って、勤務先の同僚にお願いしてシフトを替わってもらい、何年か振りに生まれ育った地元の町へ帰省したのだった。


「チャラチャラしないでちゃんと働いてるのか?」

「うわー、自分のした行いは棚に上げて冒頭から小言とは!うん、それはまぁちゃんとやってるよ、自分なりにね」


父が運転する助手席から眺める故郷の町は、一見昔から何ひとつ変わっていないようにも思えたが、かつて雑木林が生い茂っていた場所にマンションの建設が始まっていたり、かつてそこにあったはずの田んぼが整地されて、何とも言いがたい同じような形をした小綺麗な建売住宅が並ぶように建っていたりして、町のところどころに確かな変化も垣間見られ、今年で六十八歳になる父の頭髪には、随分と白髪が目立つようになっていた。


「あー、、、あの口うるさい親父がやってた酒屋がコンビニになっちゃったんだー」と僕は言った。

どんどん変わってゆくよ、と父は言い、真っすぐと前を見据えてハンドルを握りながら僕に言った。


「ずっと昔、お前に父さんの車を貸してやったその日に、前輪のタイヤをパンクさせた揚げ句バンパーにでっかい傷を付けて帰ってきたことがあったろ?」

「あはは、あったあった」

「それが後々になって父さんにバレた時、お前は、あの参道の道が悪すぎたからパンクしたんだ!とか、俺のせいじゃないんだ!とか言って言い訳してたけど、どうせお前のことだから荒い運転でもしてたんだろう」

父が思い出したように僕にそう言ってきたので、 荒かったといえば確かに荒っぽかったかもしれないけど、あの当時はそれが荒いということに気付いていなかったなぁ、と僕は言った。

「ホントにお前には色々と苦労させられたからなぁ」

「確かにねぇ、、、色々とお世話になりました、なーんて」

と僕はおどけながら言うと父は笑った。

「まぁでも確かにお父さんもな、いつもあそこの参道を歩くたびに、この道はなんとかならんのかと思ったもんだよ。雨なんか降った日にはもう道がグッチャグチャでなぁ。家に着く頃にはお父さんの靴やズボンの裾なんて泥だらけになって、そんな状態で家へ帰るといつも母さんに怒られる。人が一生懸命働いて帰ってきたのにだぞ。アレにはいつも腹が立った。でもあの道な、今じゃすっかりキレイに舗装されちゃって、遊歩道まで出来たんだぞ」
と父は僕のほうをチラリと見ながら言った。

「へぇ、そこ遠回りして通っていこうよ、姉ちゃんは何とかなるよ」

僕は父を見ながらそう言うと、

「遅れたら待ってるお姉ちゃんに怒られるぞ」と言いながらも、父はそのキレイに舗装されて様変わりしたという参道へと向かって車を走らせてくれた。


久しぶりに親子三人で会うために、僕と同じように都合をつけて弟の僕がやって来ることを父の新しいアパートで待っている姉は、九年前に地方銀行で働く九歳年上の、絵に描いたように誠実そうな人と結婚し、父の住む家から二駅しか離れていない場所に住んでいる。

子供は、いない。親戚や周りの人々からは、結婚してもう九年も経つのだからいい加減子供を作ったらどうか、と耳が痛くなるほどにせっつかれ続けているらしいのだが、うるさいったらありゃしない、いざ子供が出来て産んだら産んだで、今度は二人目はいつだ、とかそんなこと聞いてくるんだからあの人たち、と前に電話で話した時に半ばふてくされた様子で話していた姉だったが、本当のことを言えばそれは作らないのではなく、姉か義兄のどちらかに原因があって、子供が出来ないのだ、ということであった。朗らかな性格でありながら、せっかちで気の短いところもある姉は、時間に関しては厳格な小学校の先生のように昔から口うるさかった。そんな姉を待たせてしまうことでつまらぬ小さないざこざを勃発させてしまうことを長い姉弟関係の中で重々承知していたが、僕は父が運転する車の助手席に深く身を埋めると、窓に流れる懐かしい景色に目をやりながら、深い追憶に浸っていた。


母が死んでから今年で十二年が経つ。お世辞にもいい母親だったとは言えないし、あまり好きな人ではなかったが、それでも母が亡くなった日の夜、僕は母の亡骸の傍からずっと離れられずにいた。冷たく、硬くなってしまった手をただただずっと握りながら、母親にとっての一生とはどんなものだったんだろう、母親にとっての幸せとは、いったいどんな形を成すものだったんだろう、そんなことばかりを考えた。けれどもいくら思考を巡らせようと、母親の幸せの定義など、例え肉親であっても僕に分かるはずもなかった。


「昔の家、見に行くか?あの辺り変わったぞ、びっくりするぞ」

と父が言ってきたので、僕はしばし考えた後で、行く、と答えた。

僕が十九で家を出て、母が亡くなった後、姉も結婚し、姉は旦那さんと父との三人で実家で暮らすことを提案し続けてきたが、それではお互いに居心地が悪いだろう、との理由から、その後は先述したように父一人で4LDKの家に住み続けていたのだが、僕と姉に何の相談もせずに、あの家、売ったぞ、と言って、新しい家の住所を教えてくれたのは、父がアパートに引っ越したとの連絡を姉から受けて、僕が何度も父のケータイに連絡をし続けたのちの二日後のことだった。


「あり得ないよ、黙って家売っ払うなんてさ」

「モテモテだったお前の部屋から出てきたいろんな女の子からの手紙な、あれ全部処分したぞ」

「からかわないでくれよ、そんなもん、別にいらないし」

「いらないのか?ホントは取ってあるぞ、何だかいやらしい本も出てきたなぁ」

「そりゃあるよ、同じ生き物としてお父ちゃんも分かるだろうよー」


小さい頃、家の裏手に広がっていた田んぼのあぜ道から森へと続く道を歩いて出勤してゆく父の姿を、二階の窓からよく眺めては手を振っていた。それは、父が仕事を終えて帰ってくる時も同じで、夕刻、または夜分に、遠くからよく響く口笛の音が聞こえた時、窓から顔を出してみると、森の道を下りながらもう一度口笛を吹いて、こちらに向かって手を振りながら帰ってくる父の姿が見えるのだった。それはいつ頃からか、これといった決まりもなく始まった儀式のようなものになり、一日の中での楽しみな時間のひとつでもあった。

父の姿が家の裏手に回って見えなくなり、僕が一、二、三・・・と三十を数え終えるころ、家の玄関から五メートルほど離れた場所にある小さな門が、カチャン、と音を立てて開ける金属音が聞こえ、父の靴の踵に打ち付けられてある金物の足音が近付いてきて玄関が開くと、家の中の空気が一瞬乱れて、窓ガラスや家具、ふすまがキシキシと微かに音を立てて鳴く。するとそれに少し遅れるようにして、ただいま、という、張りのある父の声が聞こえてくるのだった。


「お母さんな、あんな人だったけど本当はお前のことをずっと心配してたんだぞ。会いたかったんだよ、本当は。何十年もずっと一緒にいれば分かる」

父が僕にそう話しているのを、僕は黙って聞いていた。車はもう昔の家があるすぐそこまでやってきていて、昔の面影をところどころに残しつつも、こんな田舎にも都市開発の波が少しずつながらも押し寄せてきていることを、目の前の光景が黙って教えてくれていた。


「ちょっと止めて」

「どうした」

「ちょっと歩きたい」


そんな僕の言葉に、チラッと僕のほうを見た父は、今はまだ整地の手が及んでいない田んぼの脇へと車を寄せて車を停車させると、黙って車のエンジンを切った。

僕は車から降りてしばらくその場に佇み、目の前に広がる景色をぼんやりと眺めていた。僕はポケットから煙草を取り出して吸おうとしたが、父と待ち合わせをして待っている時に吸った煙草が最後の一本だったことを思い出し、煙草を吸うことを諦めた。けれどもそのおかげで、懐かしい町の匂いが体中に染み渡るようにすぅっと入り込んできて、僕をとてもやわらかな気持ちにさせてくれた。そして、僕が子供時代から思春期までのすべてを賑やかに過ごしたこの町は、いざ大人になって立ってみるとこんなにも静かな場所だったんだな、と思った。

歩いている途中で、突然ふと、僕がまだ小学生だった頃によく一緒に遊んでいた、坂内君という友達のことを思い出した。これといって特に仲がいいというわけでもなかったが、ただ近所に住んでいた、というだけの理由と、坂内君の家はちょっとしたお金持ちの家で、当時自分の部屋などは持っていなかった僕からすれば、小学生の身分で八畳もある自分の部屋を与えられていた坂内君のことを羨ましく思う気持ちと、何よりも坂内君の部屋にはトミーやらバンダイのポケットゲームがたくさんあったことから、そのゲームしたさに学校帰りによく遊びに行っていたのであった。

坂内君とは、夏の夜になるとけたたましく田んぼの中で鳴き叫ぶ蛙を静かにさせるために、そこらにある大きな石を拾っては田んぼに向かって投げ込んで蛙を鳴き止ませたり、捕まえた蛙をティッシュペーパーに包んで、ライターで火を付けて焼き殺したりして遊んだりした。 今思えば残酷とも思えるそんな行動も、幼少期を過ぎればそんな行動や発想もなくなって、いわば性衝動にも似たそんな感覚は、何せモテモテだった僕のことである。中学校に上がった頃にはやがて健全な形として異性である女の子に向けられるようになった。

そんなふうにある時期を共に時を過ごした坂内君が、スキューバダイビングの事故で死んだ、ということを人づてに聞いたのは、確か僕が二十二歳の春のことであった。

かつて自分が住んでいた実家が近くに見えてくると、坂内君への追憶はそこであっけなく途切れた。そして父が売り払ってしまった僕ら家族の実家の前に立つと、胸が不思議な高鳴りを持って動きだしたのを感じたが、それは興奮でも焦燥でもない、得体の知れないリズムであった。ここに住んでいた頃、何度も何度も幾度なく通って見慣れたはずの小さな門の脇の表札には、自分たち家族とはまったく関係の無い、知らぬ住人の名が壁に鎮座していた。けれども玄関へ行く前に開けなければならなかったあの小さな門は、あの当時のままの姿でまだそこに存在し、大人になった僕を迎えてくれていた。

ここを出てから十数年の月日が経ったのだ、と僕は思った。僕が家を出たことをきっかけとして、それから少しずつ、目に見える家族という在り方の形が変わってしまった今日までの日々を思い、僕は幼気な痛みに駆られた。その痛みは、僕をどうこうさせるほどのものではなかったにせよ、こんなにも静かな地で、あんなにまで賑やかな自分の家族がかつてここに存在していたことへの不思議な感慨に僕は静かに包まれた。

その時僕はその小さな門に手を触れて、その門をそっと開けてみた。すると、昔父が帰ってきたことを告げていたあの門の金属音が、あの頃と少しも変わりない音で、カチャン、と目の前で波紋のように広がったのだった。僕は何度も何度も同じことを繰り返してその音を聞いていた。


カチャン…カチャン…カチャン…


繰り返してその音を聞く度に、僕は深い郷愁の波に引き込まれ、そして飲み込まれた。そして突如として元気だった頃の母親の姿が蘇り、僕は母親に対して一度も心から手を振れなかったことを初めて悔いた。僕はいったい母親の何を許せなかったのだろう。許せなかったことで、僕と母親は結局何ひとつとして始めることが出来なかった。そして僕は、たったひとりの人間すらも許すことの出来ない、つまらない大人になってしまった。だらしのない母親で、幼少期から随分と悲しい思いを負わされてきたような気がしていたが、大人になってしまえばそんなものはとっくに消化出来ていて、どんなにだらしのない人間だったとしても、そんな母を父が愛して生まれてきたのが僕なのだ。そしてその僕が母親をずっと敬遠し続けていたことも、結局最後まで会えずじまいのまま母が死んでしまったことも、母を必死に愛そうとしていた父からすれば、それがどんなに悲しいことだったか。父はどうして僕と姉に黙ってこの家を売り払い、ここから離れなければならなかったのか、気のせいかも分からないけれど、何となく、少しは分かってあげられるような気がした。

僕は門から手を離してしっかりと閉じ直したあとで、しばらくの間、その門と家をじっと眺めていた。すると、さっきからの僕のそんな行為を不審に思ったのか、ここに住んでいる家族の母親らしき女が、二階の窓から怪訝な面持ちで僕のことを見つめていた。僕は気まずい思いで目をそらして静かにその場を離れると、一度も振り返ることなく、父の車が待つ場所へと踵を返した。


何もかもを変えたいと望んで家を飛び出したあの日。あれからたくさんの歳月を重ね、町も、家も、人も年をとった。あの頃、若い自分が思い描いた未来の形とは違う自分がそこにいて、頼りない自分の掌から、ただ膨大な時間だけがポロポロとこぼれ落ちていった様を心に見ながら歩いている時、目の前にあの頃と変わらぬ匂いの風がそよいで、僕は急にあの頃へと帰りたくなった。お金も無く、ロクな仕事もしていなかったが、途切れることのない夢と、まだ母親が元気だった頃の日々が、今の自分に深い愛情の感懐をもたらしたのだった。


車の中では、父が笑いながら誰かと電話をしていて、僕が車のドアを開けると、はい、お姉ちゃん、と言って、両手の人差し指を頭の上に立てながらケータイを僕に手渡した。


「ちょっとぉー!人が準備をしてお腹を空かせてあんたのこと待ってるのに、どこで何をやってるわけぇ!」

「あはは、ごめんごめん、今ちょっと実家を見にきててねぇ」と僕は答えた。

「はぁ〜?実家って…何でそんなとこにいるわけぇ?そんなの後ででいいじゃない!駅で連絡くれてから何時間経ったと思ってるのよ!こっちはあんたが十九時に来るっていうから、料理作ってずっとお父さん家で待ってるのに!今何時?もう二十時を過ぎてるじゃない!料理が冷めるー!」


そんな姉の声が受話器越しから父に聞こえていたのか、父は小指でほっぺたを掻きながら、 お姉ちゃん、声デカイなぁ、と言って笑った。気が立っている姉の気持ちを遮るように、いいじゃないかよ、別にまた温めれば!と言った後で、姉がまたガミガミと文句を言ってきたので、わかったわかった、もう向かうから、と言って電話を切った僕は、無造作にケータイを父に返すと、辺りは急に静けさを取り戻して、空では二羽の真っ黒いカラスが並んで飛びながら、カァカァ、と鳴いていた。


「もういいのか?」

「あぁ、うん」


車のエンジンの音が再び日常を取り戻す。あのあぜ道も、森へと続く道も姿を消してしまった。だけれども、今となりで車を運転している歳を取った父が、手を振りながらあのあぜ道を歩いてくる姿が、何故か頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消え、幻のように揺らめくことをやめなかった。 そして何故かいつの日かまた、あの日と同じ光景に再び出会えそうな気がした僕は、今こうして我々が普通にここに生きていることに不思議な愛おしさを感じて、それがとなりにいる父に対してなのか、これからの日々に対してなのか、それはよく分からなかったけれども、妙に清々しい気持ちが僕をやわらかく包んでいた。


「ちょっ、ちょっと止めて!」

「なんだ今度は」

「ションベンしたい!」


僕は小さい頃によくしていたように、今ではすっかり肩身の狭い思いをしてしまっている田んぼに向かってションベンをした。あの頃はチョロチョロとした短い放物線しか描けなかったションベンは、今では右へ左へと、大きな放物線を描いて、勢いよく遠くへと飛んでいた。


「ションベンビーム!わっはっはーっ!」

「早くしろ。何をやってるんだお前は」


運転席に座りながら開いた窓越しに呆れた様子で父が言ったが、僕は聞こえないふりをした。

僕の頭の中では、あの小さな門を開ける時の金属音だけが深い残響として鳴り響いていた。それはどんな音よりも厳粛な響きで、まだ家族がひとつであった頃に家族の絆を刻み奏でていた、世界でたったひとつの、小さき愛おしい音だったような気がした。

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