コピーアンドペースト

  • 2016.01.06 Wednesday
  • 20:00


毎年毎年、正月に書くことなんて決まっているのだから、いっそのことここはコピペでも構わないじゃないか、という気もするけど、文章だからコピペなんて言葉があるものの、毎朝仕事先で口にするおはようございます、という挨拶なんて、ある意味コピペのようなものだ。だってそこにどれだけの想いが込められているのかと問われれば、ただ無感覚に口にしているだけのほうが遥かに多いはずだし、それに比べれば文章での挨拶は表情は見えないものの、遥かに想いを込めて書いている。
何せコラムカテゴリーとしてワンタイを書くのは昨年の四月以来八ヶ月ぶり。
今まで何をしてたんだ、ということはさて置きとしても、お久しぶりです、という挨拶もあるのにコピペなんてするわけにはいきません。
ということでワンタイを訪れてくれた皆さま、心を込めて、新年明けましたねおめでとうございます!
(そもそもこんな短文をコピペする必要は無い!)

それにしても2016年ですよ、2016年!
長い長い間人々の心に棲みついて、西暦1999年を迎えることに恐怖を感じていたノストラダムスの呪縛から解き放たれてから早17年。今や若い子たちにノストラダムスと言っても、あー!マリファナ吸える国ですよね!なんてトンチンカンな返事が返ってきて、あのね、それはアムステルダムだよ、、、と教えてあげても、あ、そうでした!間違えました!運河でしたね!なんて言われて、運河?とこっちの頭が少々混乱してしまうほど、ノストラダムスは取るに足らない存在に成り下がってしまったが、考えてみればルパン三世の山田康雄だってドラえもんの大山のぶ代だって今の子たちはきっと知らない。
それもそうだ、だってその逆も然りで、山田康雄を引き継いだクリカンならまだしも、大山のぶ代のドラえもんを誰が引き継いだのかなんて、ウィキペディアでも開かない限りおいらだって知らないのだ。

でも知らないことは恥ずかしいことでも何でもないよね。むしろ知らないという事実を知ることで、自分はもちろん、相手が今日これまでの間にそれらの物事に対して何の興味も抱いてこなかったことを知ることが出来るのだから話は早い。
知らなかったことを知れたことで興味を抱くきっかけになることもあれば、知らなかったことを知ったことで、いよいよ決定的に興味を失くすきっかけになることだってあり得る。あぁ、だから人って面白い。
このワンタイというブログにしても、なぜ八ヶ月も更新しなかったのか、という理由は誰も知らない。
ただ、拝読する意思が無くとも受動的に目に入ってきてしまうTwitter等のSNSとは異なり、ブログは受動的とは違う、興味を持ってもう一歩踏み込んでくれた人たちが訪れる場所だと思っているので、おいらももう一歩踏み込んで書き綴る必要は、ある。何があったかを伝えたいわけではなく、それらを通して何が残って何を思ったのか、そうした心情を少し書くことくらい、ここを訪れてくれた人たちに対しての礼儀なのではないか、と勝手に思っている。
ではなぜ八ヶ月もの間もワンタイを放置していたのか。
それはズバリ。おいらだってよく分からないのだ。

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便りが無いのは良い便り。
最近の在宅老人たちの末路を思うと、そんなことももう言っていられないだろう。
便りが無いのは死んでる便り。
ま、いくら何でもこれは不吉だ。

ただ去年の一年間は、とてもモノ作りをする人間とは思えないほど、アーティストとしては完全に終わっていたと思っている。
もちろん良いことも嬉しいこともたくさんあったけれど、それはただ自分自身の利益に限られたことで、自分が誰かの役に立っているという実感がまるで希薄な一年だった。なのでこれを糧にして今年は、、、というより、人として有益な時間を得てこれなかったこと、いや、与えてこれなかったことへの憂いは、一年ぶんのブランクを背負ってしまったくらいの気持ちでいる。
ウサギは寂しいと死んでしまう動物と聞くけれど、人間は寂しくたって別に死にやしない。
けれども、誰の為にもならないような時間を多く過ごすことはやがて人間の心を貧しくさせる。貧しくさせているのは何だ。それはただ心の中で様々なモノが死にかけているからで、むしろそこに何も無いのだ。
それは寂しいなんてもんじゃないし、悔しいなんてもんじゃないし、情けないなんてもんじゃない。でも巡り巡って同じ場所をぐるぐると回るから、よく分からなくなってくる。だから死んでしまいたい、とかろうじて思うかも分からないけど、そんな勇気も無いし、そもそもそんな気も無いし、それも踏まえて生へのエネルギーのほうが遥かに勝っているから、ウサギの気持ちはやっぱり分からない。

さきほど、知らないことは恥ずかしいことではない、と書いたけれど、知ってしまうことで怖くなったり躊躇を覚えることに比べれば、知らないことで恥ずかしい思いをしたり怒りを覚えたりすることのほうが質量が軽い気がしてのことだ。
だって総じて言えば、知らなければ許すも許さないも無いけれど、知ってしまうことは、それを許せるかどうか、という本質に繋がって深く問われるわけでしょう。
おいらは人に迷惑ばかりかけてきた人間だから、人に対して人に迷惑をかけるな、とはとても言えない。もし言えるとしたら、これからもお前に迷惑かけるから、お前も俺に掛けてくれ。それだけに尽きる。
でも言えない、って何だろう。それは負い目も理由のひとつ。負い目が増えれば増えるほど、言いたいことは次第に言えなくなるし、言葉の説得力は急速に失われる。そもそも言葉の説得力云々の前に、キュークツになっている心からそんな言葉が生まれるわけがないし、そんな人間が偉そうに何かを言ったところで、あいつ何言ってんだ、となる。
俺は(私は)今までの人生の中で負い目なんて一つも無い、と胸を張って言える人ももちろんいるだろう。でも自分は違う。負い目を背負うことが悪いことだらけとは思わないけれど、やっぱり荷物は軽いに越したことはないし、やっぱりそのせいで誰かに迷惑はかかっている。心を身軽に保ちたいのなら、自分が望むような自分であり続けたいのなら、自分が思うように人に何かをしてあげたいのなら、出来るだけ負い目を持たないことか、減らすことだろう。
そして心を強く保ちたいのなら、誰かの荷物をそっと預かってあげることだ。
そして内田裕也ならきっとこう言うだろう、バカ野郎、人に迷惑かけなきゃロックじゃねーよ、大事なのはそれを許せるかどうかなんだよ、サンキューロックンロール。

内田裕也がテレビでコメントを口にするたび、ロックンロールは関係ねーだろ、といつも思う。
でももし内田裕也がそんなことを言っていたら、おいらはきっと許してしまう。

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去年はずっとそんな日々の中にいて、自分に足りないモノばかり探して搔き集めていたら、逆に余計なモノばかりが増えていた。
そしてワンタイは、余計なことばかり書いているような気がして、更新をためらったり消去したりを繰り返していたのだが、余計だと思っていたことにこそ大事な言霊が潜んでいて、いざきちんと書こうと思ったら、すっかり書く力が失くなっていた。
今回だって危ない。ただでさえ書くことに長けているわけでもないのに、この八ヶ月のブランクでこんなまとまりの無い文章をここまで羅列させている。危険だ、更新するのやーめた、となりかねない。
でも新年の挨拶を考えれば、鏡開きまでの間に更新する必要があるし、僕、人生楽しんでます!今日友達とこんな遊びをしたよ!友達多いっしょ!ライブ絶対観に来てー!
書きたくないよね、そんなこと。そんなアピールをしたいだけの場なら、とっくにブログなんてやめている。

消えたと思っていても、大事な場面や肝心な瞬間で不意に顔を出してくるのがMr.コンプレックス。
やぁ、またおまえさんかよ、となる。
哀しみやコンプレックスは質量が重いから常に沈殿する宿命にあるけれど、あくまでもそれは沈殿であって、殆ど消えることは無い。時が経って上積みが幾らキレイになったところで、自ら掻き回してしまったり、他者から掻き回されたり激しく揺さぶられたら、それまで沈殿していたモノはあっという間に広がって上積みをそれらで染めてしまう。だからまたそれらが沈殿してゆく様をしばらくジッと見つめながら、時々上積みだけをドボドボと注ぎ足してみたり、容器そのものを入れ替えてみたりするのだけど、結局は上積みを注ぎ出そうと容器を入れ替えようと、ましてや沈殿する時をジッと待ちながら見つめていようと、そんなことをしていたって問題はいつまでも解決しない。
キレイな上積みだけを飲もうなんて都合が良過ぎるし、上積みだけ相手に飲ませることもまた然り。
むしろ掻き回して薄くなった時こそ、それらを一気に飲み干す絶好の機会ではあるまいか。今回のワンタイはまさにそんなモノ。

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「ちょっとおやじさん、大丈夫?」
年齢は六十五、六、と言ったところだろうか、まるで土下座でもするかのように路上に額を擦り付け、体を小さく丸めながら微動だにしない男の傍を、怪訝な表情というより、無関心な様子で通り過ぎる人々の中で、おいらは男の肩をそっとたたく。
別に親切にしてやろうと思ったわけではない。ただ、仕事場の入り口を塞ぐように男がうずくまっていたので声を掛けた、と言ったほうがきっと正しい。
埃だらけのボア付きの紺のジャンパーから、どこが発生源かは分からないが、何日も風呂に入っていないかのような、あの脂っぽい特有な男の臭いが鼻をつく。返事がない。一瞬死んでいるのかと思ったが、どこかに怪我を負って血を流している様子は見受けられなかったし、顔を近付けてみると、うぅ、と小さな声をあげている。

「おやじさん大丈夫?どうしたの、生きてる?」
おいらは再び男に声を掛ける。
「○△×?∩∞≦♯〜〜」
「え、なになにー?」
「あしがよー、、、うごかないんだよォ、、、もうよー、、、」
ひどく小さな声だったが、おいらの呼び掛けにそう答えると、沈痛な表情を浮かべながら寝返りを打つようにして、男はそのまま路上に仰向けになってひっくり返ってしまった。
「あらー、、足かー、、、痛い?立てる?いけそうなら手ぇ貸すよ、ほら」
「○△×?∩∞≦♯〜〜」
「なになにー?おやじさんおうちどこ?帰れるー?とにかくこんな道のど真ん中で寝てたら蹴飛ばされちゃうよー」
「いいんだよォ、、、死んだってよぉ、、、もうよォ、、、おれなんかよォ、、、もう死んだってよォ、、、」
「わかったわかった、もうしょうがないなー、どうする?これおまわりさん来ちゃうよー」
おいらがそう言うと、男はびっくりするくらい小さな目を開けながら、
「にいちゃんわるいなぁ、、、わるいなぁ、、、いいんだよォ、、、おれなんてよォ、、うぅぅぅ、、、」
と言った。

こんな時、村上春樹の小説なら、やれやれ、という台詞がピッタリだろうな、とおいらは思った。
頭上では街のネオンがギラギラと光って、至る所から奇声や笑い声や音楽が聞こえる。短いスカートを履いた女の子二人組が向こう側からやってきて、今まさに、仰向けに倒れている男の顔のすぐ傍を通り過ぎようとしている。彼女たちにとって、目の前の男はもうすでに男ではなくて、その辺に転がっている石ころと大して違いはないのだろう。もしおいらがここに横たわっていたら、さすがにこんな顔元の上を通り過ぎようとはしないはずだ。
おい、チャンスだぞオヤジ!目をかっ開いてかわいいパンツを拝んでしまえ!

そんな時、やっぱり誰かが通報なり交番に伝えに行ってあげたのか、予想通りおまわりさんがやって来て、さっきまでのおいらと同じように、あーあぁー、どうしたの!ダメだよこんなとこで寝ちゃ!と言いながら男の肩をポンポンとたたく。
「ほらー、来ちゃったおまわりさん!うーし、じゃあ帰るよー、またね、おやじさんしっかりねー!」
「うぅぅぅ、、、にいちゃんありがとうなぁ、うぅぅぅ、、、」

男に何があったかなんて知らないし興味も無いけれど、どこを切り取っても強欲そうな街の喧騒と男の小さな生命力の対比が何とも生々しく、自分は何てまだまだ若いのだろう、と思った。あんな風にはなりたくない、と思ったわけではない。むしろ自分がいつあんな風になってもおかしくないとすら思う。
けれども何だか正体不明の勇気が湧いてきて、生きてるって、つまりこういうことだよぁ、と、日々への愛しさがふつふつと込み上げてきたのだ。
家族も友達も、仕事もしがらみも、好きな人も苦手な人も、お酒に酔っ払うことも女の子に酔うことも、歌を歌うこともギターを弾くことも、毎日はほぼ同じことの繰り返し。
でもそれは、コピーアンドペーストとは違うのだ。

たくさん持つことが必要なのではない。
必要なものを傍に、そして誰かのために必要な人であれますよう。
だからどうか、みなさん今年もよろしくお願いします。



『鈴木ナオトバンド 2015年もどうもありがとうドキュメント』2015.12.29 新宿OREBAKO

赤いパンツと言葉の火種

  • 2015.04.15 Wednesday
  • 19:50


赤いパンツを穿いている。一般的な男子がいったいどれくらいパンツを所有しているのかは知らないが、僕はざっと考える限り十五枚程度持っていて、メーカーは殆どがBodyWild。
その中で赤のパンツは三枚。お気に入りの下着があるのはきっと女性に限られた話ではなく、男にだってきっとある。
ということでこれらの赤いパンツ三枚はとても気に入っている、いわば勝負パンツだ。
しかし久々のブログなのにいきなり赤いパンツを穿いている、とは何事か。
単刀直入に言おう、僕は大事な日やライブの日は決まって赤いパンツを穿いてきた、という話である。

これはいわば自分なりの験担ぎみたいモノで、かつての常勝ヤクルトスワローズを率いていた名将野村監督が、チームが勝ち続けている間はパンツを穿き替えない、という験担ぎをずっと遂行していたように、もはやこの僕の赤いパンツはルーティンワークのようになっているので、ライブを始めとした大事な日についうっかり赤以外のパンツを穿いてきてしまった、ということは一度だって、無い。

なぜ赤いパンツなのか、理由は二つ。
昔、アジア放浪をしていたバックパッカー時代にインドのカルカッタを訪れた際、まだ在命中であったマザーテレサのミサへ参加した時に、あなたは赤がとてもよく似合うから、なるべく赤いものを一つでも多く身に付けなさい、との有難い言葉を頂いて今もその進言を守り通していること、というのはウソで、赤いモノを身に付けると体にパワーが宿ると聞いて、ならばと試しに赤いパンツを穿いてライブをしてみたところ、納得のゆくパフォーマンスが出来たことに加えて、お客さんからの評判が格段に良かったことに気を良くして以降、験担ぎは験担ぎでしかなく、それが本質的に頼りになるモノなんかではないことを知りながらも赤いパンツを穿き続けている、まぁそんな程度である。
自分自身、そんなに信仰深い人間ではないし、ずっと実行している験担ぎのようなモノは何かと考えてみたが、どうやらこの赤いパンツくらいしか思いつかない。
ちなみにマザーテレサのミサに参加したくだりまでは本当のことである。

ブログではよほどこれといった特筆するモノが無い限り、ライブレポート的なことは書かないようにしているのだけど、相も変わらずそんな赤いパンツたちを穿いて最近出演させて頂いたライブは、どれもこれも内容がしっかりとした上に愛のあるイベントばかりで、少し前のことになるけれども池袋SUNNY SPOTで行われたもりきこJUNNYちゃん企画にしても、先日の西川口Heartsでの斉藤省悟のレコ発にしても吉祥寺Shuffleでのうみんちゅpresentsにしても、会場のステージ側とオーディエンス側に隔たりが無い、とても素晴らしい雰囲気の中でのライブイベントだった。

ライブはまず自分たちが楽しむこと。それはもちろんそう思っているし分かるのだけど、演者側とオーディエンスの温度感に大きな開きが見て取れるような、自分たちが楽しければそれでいいじゃん、みたいなライブに成り下がっているステージやイベントに遭遇することもまた事実で、そういうライブを観てしまった時の感覚は、観ようと思っていたテレビ番組がつまらない四時間特番SPで潰されてガッカリ、程度のモノとはいえ、失望といえば失望とも言えるし、憤慨と言えば憤慨とも言えるし、もっとマジメにやれ!と思いつつ、観たモノすべてが跳ね返ってきて、自分もそんなライブをしてしまっているのではないか、と自問自答を繰り返す機会を与えられる夜だったりする。

特に最近は、つんく♂の声帯切除のニュースを知って、つんく♂がそれを決断するまでの気持ちや公表に至るまでの気持ち、そしてこれから過ごしてゆく声の無い人生を想像すると、歌うたいの思い云々は当然のこととして、つんく♂の強さを讃えるよりも遥かに、その絶望的状況に打ち勝てる自信などまるで無いことに打ちひしがれた。
同じ病気で清志郎が選んだ道とつんく♂が選んだ道はまるで真逆で、生と死で対になっているように思われがちだけれど、だからこそ本気で生きようとした強い気持ちは対どころか同じだろうし、浅はかな気持ちで、もし俺だったらこっちだな、なんて、そんなことは安直に口には出来ない。

そんなことを考えていたら、ふと、もう久しく逢っていないある人の言葉が頭に浮かんだ。
そのある人とは、仙台に住む僕の伯母の息子、つまり僕の従兄で、僕より二つ年上の姉と同じ、僕の隠れた兄貴のような人のことだ。

今から二十年ほど前、その従兄の兄さんが仕事でしばらくセブ島へ行くことになり、ちょうど今東京へ出てきているので、セブ島へ行く前にお前に逢っておきたいと、当時西千葉で一人暮らしをしていた僕のところへ突然連絡があったのだが、いくら東京へ出てきているとはいえ、兄さんがいる場所が東京の何処なのかも分からなかったし、東京駅から総武快速で四十二分、電車賃にして当時六百二十円もかかる西千葉は、とてもフラリと寄れるような場所にある町ではないはずだった。
それでも言葉どおりに兄さんは西千葉まで遥々とやってくると、僕の部屋に着くなり、
「近くに旨い鮨屋はないか?」
と僕に訪ねた。

当時の僕はといえば、寿司といえば廻る寿司かロボット寿司しか食べたことがなかったし、そもそも当時の僕は貧乏を極めていて、ガス、電気はもちろんのこと、水道まで止められて近くの公園まで水を汲みに行っていたような有様で、それでも飼っていたネコにだけには愛をもって食べさせていたおかげで、僕はネコ缶の残りに醤油をかけて食べる、まさに本当の猫まんまを食することも珍しくなかった。

「鮨屋ですか?それは廻る寿司のこと?」
「バカ野郎、廻ってる所じゃちっとも落ち着いて話せないだろう。少しばかり遠くても構わないから鮨屋を探しに行こう 」

そう言って兄さんから背中をポンと叩かれた時、そういえば家のすぐ近くに鮨屋らしき店があったことを思い出しその旨を兄さんに伝えると、
「よし、そこ行こう」
と白い歯を見せながら嬉しそうに兄さんは笑った。
僕は、旨いのか不味いのかすらも判らないその鮨屋へと兄さんを案内することに大変な不安を抱きながら、案内する側でありながらも兄さんの少し後を歩いたものだ。

僕は生まれて初めて行った廻らない鮨屋で、まずカウンター席ではどのような順番で注文し、どのような振る舞いをすればスマートなのかを兄さんから学んだ。
しかし残念なことに、あれから二十年も経った今になっても、その紳士的でスマートな振る舞いを試せる機会は一度も訪れていない。
なぜなら今の回転寿司屋さんが昔に比べて遥かに旨過ぎる、ということもあるけれど、何より廻らない寿司屋へ誰かを連れていけるほど僕の懐はいっこうに潤わない、ということが理由として挙げられる。
ただ、その時に食べた寿司がいかに美味しかったかを僕は今でも思い出すことが出来るし、確か二人で三万円弱ほどだった手書きの勘定を見た兄さんが、
「何だよココ、安いな」
とニヤリとしながら軽快な手ぶりで財布から大枚を三枚取り出し、ポーンと気前良く払った姿を今もよく覚えている。

兄さんはその鮨屋で、酒を呑みながら久し振りに逢った僕に熱く語った。
「お前の夢は何だ?夢があるなら俺に話して聞かせろ」
夢ー。
どんな貧乏暮らしをしていようと、僕には僕でそれなりの夢があった。
けれどもそれはただの夢で、そこに向かって具体的に何か真剣に取り組んでいたワケではなかったし、夢であったニューヨークでの暮らしを終えて帰国したものの、たかだか二十歳そこらの若造が手にしたものなど薄っぺらい経験ばかりで、おまけに安っぽいアメリカンナイズと安っぽい偏屈な頭まで連れてきてしまった僕は、目標を失っているにも関わらず、周りの人々を斜めに見ては、ただ漠然とした気持ちのまま日雇いのアルバイトを続けてすでに二年が経っていた。
そんな僕にとって、目の前にある大きな仕事に対峙し、ギラギラとした目をこちらに向けて僕の次の言葉を待っている兄さんの前では、そんな自分がただただ情けなく恥ずかしいだけでしかなかった。

その時僕は思ったものだ。
本気じゃないから言葉が途切れるのだ、と。

「直人、ジェットコースターに乗るようなマネだけはするなよ」
「ジェットコースター…!?」
「そうだ、ジェットコースターだ。ジェットコースターってのはな、ハラハラドキドキとした刺激的な乗り物だが、下にはしっかりレールが付いてるんだ。そんなものに乗って、自分が刺激的な日々を歩んでいると勘違いしてはいけない。それが一番恐いんだ。俺はな直人、本気で頑張るってのは、俺はもう明日死ぬんじゃないか、と思うくらいヘトヘトになるまで頭と体を動かすことだと考えてる」

僕とたかだか二歳しか歳が違わない兄さんのその言葉は、頑張っても頑張ってもこの情けない暮らしから抜け出すことの出来ない自分に、良くも悪くも棒で強かに胸を突かれたような思いをもたらし、男の僕から見ても格好良いと思える、そうした兄さんの思考を創り出す火種に触れたような気がした。
確かに兄さんは、本当に明日死んでしまうのではないか、と周りが心配するほど趣味に仕事にと打ち込んでいたし、何よりも、その目やら口元から滲み出る精悍な顔つきが、それが決してハッタリなんかではないことを証明していた。

思えば、当時若かったばかりに人の親切や思いやりに気付けなかったことがたくさんあり、時を経た今でも、あぁ、あの人は何て自分に親切にしてくれていたのだろう、何ていいことを言ってくれていたのだろう、教えてくれていたのだろう、という思いや悔いの欠片が、いったいまだどこに隠れていたのか、今もなお、刹那の欠片と共に見つかることがある。
当時の自分はそれに気付けなかったというより、むしろ気付こうとしなかった。
そこにあるのに気付けない、というのは大変に残念なことだし、気付かせてくれた相手に対して、のちに感謝の気持ちを述べたくとも、今はもう自分の傍にいない、ということは、それ以上に残念で悔しい思いをいつまでも胸にこびりつかせる。
もういい歳した僕には、きちんと説明出来る個性がきっとあるだろう。
なぜならどんな人間でも個性の無い人間などいないと思っているからだ。
ただそれは始めから内部に100%あったものではなく、外部からもたらされた情報や記憶に経験を加味して出来上がったものであり、そもそも元はと言えば個人のモノではない。

魅力的で格好良い女性が、深夜の洒落たバーでラッキーストライクを吸っているのを見て、あぁ、やはり格好いい女性は吸う煙草も違うのだな、と周りが思ったとしても、実際には、その女性が以前惚れに惚れ込んで付き合っていた男が吸っていた煙草がラッキーストライクだったから、という理由だけのように、人の個性とは、外部からもたらされたそれぞれの「個」をどれだけ時間をかけて吸収して「私」に変えてゆくかという作業で、その結果として自分に対するそれぞれの他人の記憶が自分の個性なのであって、すぐに忘れてしまうような記憶をなぞる振る舞いや言動などはただの飾り。
そんなことはこのワンタイで幾度なく書いてきた。

では僕が兄さんからのそんな言葉を聞いて、それから一度でも俺は明日死ぬんじゃないか、と思うほど今日まで何かに取り組んだことがあるか、と言えば、残念ながらそんなことは一度だってない。
かといって、頑張ったことが無いのかと言われればそれも違う。
自分は頑張ったと思える到達点の基準が人より低いのか、実際に頑張り過ぎて死にでもしなければ分からないことなのかもしれないし、僕の場合、そもそも本当の意味でのチャレンジをしないままここまで来てしまったようにも思う。
あぁ、ここまで来たのか、という感慨を胸に抱くことがあるとすれば、それは決して「歩」ではなく「時」でしかないことで、もっと突き詰めて言えば、これから先、僕自身気が付いたらここにいた、というより、気が付いたら死んでいた、ということにもなり得る生き方への危機感。
チームが勝ち続けている以上パンツを穿き替えない、という験担ぎを続けていた野村監督も、弱小時代のタイガース再建という大任を担った阪神監督時代に至っては、三年連続最下位という不名誉な記録をもって、大任どころか退任に追いやられた。
きっと、様々な色のパンツを何度も穿き替えたことだろう。
赤いパンツは勝負パンツだと思い込んでいた僕も、赤いパンツには何の意味も無かったことにも気付いた。

だが今になって、どうしてそんな二十年も前の言葉たちを思い出したりしたのだろう。
きっとそれだけ賞味期限の長い、力のあった言葉だったのだろうし、何よりもその言葉を発した兄さん自身が、その言葉を越えるほどの逞しい生き様を傍で見せてくれたからに違いないのだと思う。
説得力のある大人になること。
それは僕が昔から決めていた目標だった。
でも実際はどうだ。それは他人が決めることだけれど、そうした火種を僕も手にしているのかどうかと考えると、どうもその自信が揺らいでくる。

まさか兄さんが、いつか僕がそれらの言葉を思い出すことを予測した上で、あれだけ熱っぽい口調で僕に何度も何度も語りかけてくれたとは思えないし、あれから二十年以上経った今になっても、僕が兄さんの熱っぽい言葉たちを覚えているとは思いもしないだろうが、僕は確かにあの熱を受け止めて、あの言葉の火種を今もしっかりと抱いている。

ジェットコースターに乗ることは今でも好きだ。
けれどもその刺激と興奮に乗り続けることはとっくにヤメた。
むしろジェットコースターを降りたおかげで色々な景色をのんびり楽しめるようになり、色々な人たちのおかげで、キラキラとしたステージにもずっと立たせてもらった。
それはまるで、豪華な装飾が施されたメリーゴーランドの中にいるようで、手を振って、手を振られ、どれに乗っても眩い場所に変わりはなかったけれど、回転木馬の如く、気付けばそれもまた、同じ所をグルグルと回っているだけだった。

今、兄さんはどこで何をしているだろうか。
とても逢いたい気持ちでいっぱいだ。
仮に僕が兄さんのいた場所へやっとたどり着ける瞬間が訪れたとしても、
兄さんはもうそこにはいなくて、さらにもっと遠くへ、もっと高い場所へと行っていて、
「おーい直人!やっと着いたか!遅いぞ!いつまでもそんなところで休んでるなよ、こっちへ来てみろ、お前の知らない面白いもんがもっとたくさんあるぞ!」
とでも言って、あの自信に満ちた得意げな顔でニヤリと笑うに違いない。

赤いパンツを穿くのはもうヤメだ。
もしまだ穿き続けるつもりなら、持っているパンツをすべて赤にしてしまえ!
それが何色のパンツだろうとどんな人生だろうと、俺は人の役に立ちたいのだ。

そんなことを考えながら街を歩いていたら、名残り桜が風に舞って、ヒラヒラと僕の肩に落ちていた。


2015.4.1 Acoustic trio Live in 柏DOMe

鱗粉

  • 2015.02.23 Monday
  • 23:45


柔軟剤を入れて洗濯した衣類のようにふわっとした、
まるで春のチョウチョのような女のコに逢った。
その日はとても寒い一日で、傘をさしていても黒いコートを白く染め上げてしまうほどの雪が降っていた夜だったが、
隣りの春から一足早くやってきたチョウチョのように、僕の肩の傍をヒラヒラと舞っていた。

そんな春のチョウチョのような女のコが振り向くたびに、
その長い髪がサラサラと揺れる。
そのサラサラは僕の心をくすぐって僕の心をはしゃがせたが、
自分のそんな気持ちを悟られたくなくて、
はしゃぎすぎて上がった体温を冷ますかのように、
街の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

上品というのは、繊細なことを指すのだと思う。
繊細は繊細を選び、繊細は繊細なモノを超えて、
繊細なだけに細かい所にまでスッと入り込む。
だからあのサラサラはつまり上品だと、僕は思う。
そして、まるで春のチョウチョのような女のコは、
僕の心の中に暖かい春を連れてくる。

春のチョウチョのような女のコが笑う。
僕はそれを見て、楽しいと思う。
春のチョウチョのような女のコがまた笑う。
僕はそれを見て、この感情は何だろう、と思う。
春のチョウチョのような女のコが今度は大きく笑う。
僕はそれを見て、きっと好きだと思う。

僕の肩の傍をまたヒラヒラとチョウチョが飛んで、
僕はそのチョウチョが隣りの春へと帰ってしまわないように
そっと捕まえてみようとしたが、羽に触れた途端、
チョウチョの体が驚いたようにプルッと震えて、
僕はすぐに指を離した。

チョウチョは宙を回るようにしてパッと飛び立つと、
空中に螺旋を描き残すようにして鱗粉を舞い上がらせた。
舞い上がった鱗粉は僕の黒いコートの上にパラパラと落ち、
チョウチョはヒラヒラと飛びながら白い空の中へと消えていった。

繊細な感触と鱗粉だけが僕の指先とコートの上に残り、僕はそれをじっと見つめる。
それはどこまでも繊細で、どこまでも形の無い、
繊細なチョウチョの足跡のように見えた。

春になったら逢えるだろうか。
春を待たずに逢えるだろうか。
それはつまり、心の季節の問題で。

それはつまり、好きだからこそ問題で。

野生の本能

  • 2015.02.01 Sunday
  • 11:10


深夜、よく立ち寄っているコンビニへ入ろうとすると、すぐ傍らから
「ニャァーっ!ニャァーっ!」
という鳴き声が聞こえてきたので辺りを探してみると、黒ネコがモノ欲しそうに鳴いていた。
近寄れば離れ、離れれば見つめられ、
けれどしゃがんで人差し指を向けてみると、
少しずつ近づいてきてクンクンと指の匂いを嗅ぎ、
その小さくザラついた舌で指先をペロッと舐めてきた。
そうかそうか、これはつまり、
「おいダンナ、なんか食いもんくれ」
ということなのだな、と思い、まぐろのネコ缶を買ってくれてやる。

しかし人間を警戒するのは彼らが身を守るための習性だから仕方がないとしても、
「おい、こっち見んなよ」(シャーッ!シャーッ!)
と必要以上にダンナを威嚇するのはいかがなものか。
誰がオマエにお給仕してやったと思ってるんだい?
ええいこのー!

ところで先日、とある友人から、
「ナオトさんも健康診断を受けたほうがいいですよ!」
と提言され、ふぅむ、健康診断ねぇ…と腕を組んで考える。
彼だけに留まらず、周りの人も口々に、
四十もとっくに過ぎたのだから一度人間ドッグくらい受けて診てもらいなさいとか、
市でやっている健康診断へ行ってきなさい、と僕をそそのかすのだが、
そもそも当の本人にその気がない。
こうして煙草を吸いビールを呑み、食べ物が美味しい、
という時点で、オレは充分に健康だ!という安直な結論に達しているのでその必要性を感じていないのだ。

会社の健康診断を受けたというその彼は、
いつも体が怠いだの、疲れただの、眠いだの、調子が悪いだのとブツブツ呟いては、
本当に気の毒なくらい疲れた表情を常に惜しみなく見せているような男なので、
「で、どこか悪いところはあった?」
と尋ねてみる。
すると彼は、
「それがどこも悪くない、健康そのものだ、って言われたんですよ」
と、どこか不服そうな面持ちで言った。

「あーっ!さてはおぬし、その診断結果に納得がいってないな!」
と僕は言った。
「納得いかないですよ、こんなに体が怠いのに。今だってすごく調子が悪いんですよ」
「バカを言うんじゃない!数値は嘘をつかない!それは病は気からの典型だぞ、安心しろ」

確かに、自分の具合が悪いな、熱っぽいな、などと感じた際に体温を測って、
体温計に『36.1℃』とか表示されると、おかしいなぁ、と
少し拍子抜けしたような気持ちになることはなくもないが、
その逆もまた然り、下手に体温を測って『38.7℃』とか表示されると、
うわわ!やっぱり熱がある!と心がうろたえてガックリくるので、
僕はなるべく体温計は使わず、
煙草やビールの味で自分の体調を測るように心掛けている節が存分にある。
でもたぶん、このような人は他にもたくさんいるだろう。

以前僕の知人にも、
「自分は鬱に掛かってると思うんですよ、間違いなく」
と勝手に思い込んでは、自らの行動力の無さや思考力の浅さ、
そして何より何事に対しても無気力なこの状態は、
鬱がすべての原因なんです、と自らの体たらくを擁護している人がいたが
(これがまたそういう人が多くいる)
病院へ行って診てもらい、どこも悪くありませんよ、と診断されると、
そんなはずはない!私は絶対に鬱なんだ!こんな病院は信用出来ない!
とメチャクチャなことを言い出して、その後幾つもの病院を転々と訪れる。
そして、あぁ、総合失調症ですね、お薬出しましょう、と診断を下されてやっと、
あぁ、やっぱり私は(僕は)鬱だったん だ、と彼らの心に安穏が訪れるのだ。
傍から見ている僕からすると、そんな気持ちで幾つもの病院を転々としているから
健康な心も萎えてきてしまうのではないか、と思うのだが、人の心は宇宙である。
星がキラキラと煌めく空間にもなれば、どこまでも闇が広がる世界にもなる。

「出ている数値を信用出来ない、っていうのは心の問題だ、心療内科へ行ってこい」
いつまでも診断結果表をヒラヒラと手に持ちながら、
不服そうソレをじっと睨み続けている彼に僕は言った。
「そんなもんを穴が空くほどいつまでも見ているからいけない。そういうヤツが胃に穴が空くんだ、よこせ、そんなもん捨ててやる!」
僕は彼が手にしている診断表をつまみあげようとすると、
彼は、や、やめてくださいよーっと言って体をねじらせ抵抗した。

この男が本当に心を病んでしまっているとしたらどうだろうか、と一瞬考える。
けれども幸いなことに僕にそれは分からないし、きっと彼にだって分からない。
世の中には本当に心を病んで闘っている人もいるし、
本当に体や心を壊して闘っている人や、
そのような人を身内に持って必死に支えている人も知っている。
ただ、知っている、というのは病状のことを指しているというよりも、
そこへ立ち向かってゆくその人々の姿勢について、と言った方が相応しいかもしれない。
それに比べて目の前にいるこの男の病に対するその気の持ちようというか、その脆弱で軟弱な姿勢は何だ。
そもそもお前は健康ではないか、と僕は再び彼に言った。

「よし分かった、それは捨てない。その代わり笑え!」
「わ、笑うんですか!!」
「そうだ!笑え!」
「こ、こうですか」
「違う!もっと口角を上に引き上げるように笑ってみろ!」
「こ、こうですか」
「うーん…何か違うんだけどまぁいーか。よし、その顔で女の子をデートにでも誘え、そしてあわよくばそのまま愛人にしてしまえ、元気になる」
「何をメチャクチャなこと言ってるんですか!そ、そんな時間も余裕もありませんよ」
「だからその脆弱な姿勢がいけないんだ!」
僕は再び彼が手にする診断表をつまみあげて今度こそ本当に捨てようとしたが、
彼は先ほどよりももっと大きく体をよじらせて、
だからやめてください、と言って必死に抵抗した。
そして我々は声を上げて大いに笑った。

それに比べたら我々人間と違って動物はなんて偉い。
食に貧しようと体に怪我を負おうと、手当ても受けずに自らの力で克服しようとする。
そう思うと、思わずネコ缶を買って与えてしまった自分の甘さに比べて、
「シャーッ!」と大きく口を開けてこちらを威嚇している目の前のネコは何てたくましいものか、と考えた。
残念ながら我々人間はもう野生には戻れないのかもしれないが、
きっと心の一部にはまだ野生の本能が眠っているはずで、
ただそれを発揮する場所が残されていないだけの話かもしれないのだ。

僕もいつか人間ドッグや健康診断を受ける日が来るのかもしれないが、
もうしばらく、もうしばらくは自分の体の状態を自分の感じ方で信じてみたい。
自分の中に眠る野生の本能を、ずっと眠らせたままにしておくのはあまりに惜しく、
ひどくもったいないのではないか、という気がしてならないからだ。

ちなみに彼は、妻子持ちである、ワンダフル。

女心も男心も

  • 2015.01.06 Tuesday
  • 22:51


皆さま、遅ればせながらとっくに新年明けてしまいましたね、おめでとうございます!
毎年毎年、個人的な感覚としては年の瀬気分や大晦日気分が薄れてゆく一方なのだけど、やっぱり大晦日の夜に除夜の鐘が遠くから聴こえてくると静かな気持ちになるし、年が明けてテレビで箱根駅伝を観ているとやっと正月気分がやってきて、昼からビールを呑み、グダグダっと横になり、知らないうちに寝てしまい、知らないうちにゴールしている、という毎年恒例の様相を晒していた。
でも僕がまだ小さかった頃の日本のお正月というのは本当に静かでのんびりとしていたもので、今みたいに24時間営業しているコンビニエンスストアなんて一つも無ければ、スーパーも町の商店街も工場もどこもかしこもお休みで、正月に賑わっているものといえば、葛飾の狭い空に所狭しとそよぐゲイラカイトと焚火の煙の向こう側で酒宴に興じる男たちくらいのもので、シンとした静かな町に羽根を突く羽子板の音があちこちでよく聞こえたものだ。

しかし昨今の日本の正月は元旦から早々賑やかだ。
昔N.Y.の八番街48stに住んでいた頃、アパートから歩いて五分もかからない場所にあった人で溢れかえるタイムズスクエアのカウントダウンで、ハッピーニューイヤー!と知らない外人からシャンパンをかけられ、それに応戦するように持っていたビールを顔にぶちまけ、ワケの分からない奇声を発しながらそいつと抱き合っていたその時間は確かに賑やかで楽しいものではあったけれど、あれから二十年の月日が流れて大人になった僕にとって、今はただただ心身穏やかに新年を迎えるほうが俄然性に合っている。

そんなことを言いつつも、去年の大晦日にはちゃっかりカウントダウンライブに出演した。
でも出番は二番手の十六時半。若手か!とつい突っ込みたくなるような時間帯だが、これは先述したように、心身共に元旦を穏やかに過ごしたい、と僕が要望したのをライブハウスが応えてくれた形であり、一年間お世話になったライブハウスに対しての挨拶のようなものなので、それはよしとする。
その日はナオトバンドの初期ギタリストであり、かれこれ今年で十九年の付き合いになる盟友カトヒロと久々に会い、久々に一緒にステージに立ち、帰りに歌舞伎町の居酒屋で一杯やった。
カトヒロは今やプロギタリストとして忙しい日々を送っている身なので、一緒にステージに立つことはなかなか難しいことなのだが、こうして一年の終わりの日に隣りでギターを弾いてくれたことが本当に嬉しかったし、久々に一緒に呑んだビールはやっぱり美味だった。しまいには店を出た後でカトヒロが今夜は奢ると言い出して散財させてしまったが、こういう時のカトヒロの気持ちもとてもよく分かるので、次は俺の番で、ということですっかりごちそうになってしまったな、ありがとう。


photo by hiromi

何年会わなくなったら親友と呼べなくなるのか。
昔、そんなことをよく考えた。
何ヶ月、何十ヶ月、何年ぶりかに会っても心の印象がまるで変わらないヤツもいるけど、人の心がずっと横ばいなまま、同じ場所で同じ状態で保たれていることなどまずあり得ない。
なぜなら、人は人の知らないところでこっそりと経験し、こっそりと成長しているからだ。
だからカトヒロに限らず、しばらく会えていない人たちなんて数えきれないほどいるけれど、仕事での失敗や成功や、家族や将来の展望や、事故や事件や、恋患いや失恋や、挫折や成就や、しばらく顔を合わせていない間にもそれぞれがそれぞれの変化の中で、些細なことから何から何まで色々なことが起きている。
そのおかげで心が成長していることもあれば、心がすっかり退廃し切っている時だってあるだろう。

大事なのは気付けることだよね。
だって気が付かなくなることは、やがて無関心で空っぽな関係を生むだけじゃない。
気付いてもらう為に特別な何かをするのではなく、自然なやりとりの中で気付いてくれた人を大事にする。
そして気付いてもらえたことに気付けること。
そして気付いたことに気付ける人。
その関係こそが心友、つまりソウルメイツ、ってヤツだよね。

「ナオトさん、女心って説明出来ますか?」
「女心!? えー!それを本当に説明出来る男って世の中にいるのかな、アインシュタインでも分からないんじゃないかい?」

昔、仲の良かった女のコと呑んでいる際、唐突にそう尋ねられてしばらく唸った後で僕はそう答えた。
彼女は僕の言葉を聞いて頷くと、思考を巡らすよう宙を見やったあとにこう言った。

「察する心を願う心…」
「…ん?察する心を、何?」
「あ、ちょっと違うかも、んー、えーっと、察っして欲しいと念じる心、かな!私が女として思う女心は!」
「察して欲しいと念じる心…あー、なるほどなぁ…でも大人になると気付いていても気付かないフリが上手くなってね、で、それがいつの間にかフリではなくてフツーになってしまうのよ」
「えー、それつまらなくないですかー」
「つまんないね、それに正直に泣いていた頃よりずっと胸も痛い、このみぞおちの辺りがね。でもたぶん、それは俺の器というか、俺の心が偏狭なだけなんだろうなぁ」
僕は彼女にそう言うと、でもそれちょっと分かります、と彼女は言って、クスっと笑った。

「でも面白いのはさ、そういうことを繰り返していると、他人が気付いてないフリをしていること自体に気付くようになったり、周りから気が利かないヤツだと思われているような人でも、よく観察してみるとそれは気が利かないんじゃなくて、気を利かして気が利かないフリをしているだけなのに、と気付いたりしてね。それは誤解を生むやり方だけど、相当高度なテクニックだよね」
と僕は言って、あははは!と我々は笑った。

でも彼女の言っていたことが本当なら、男心も女心を内包していることになる。
だって男女問わず誰だって、自分の本当の気持ちを察して欲しいと願う心は持っているし、日々に於いての悩みはそれが例え1%であったとしても重要な部分はそこに集約されていると思うからだ。
ファンタグレープを飲んでみろ、あれはれっきとしたグレープ味だが無果汁だ。
ファンタグレープの美味さに於いて重要なのは果汁何%にあるのではなく、他の何かに潜んでいるからに違いないのだ。

何年何十年と経っても心から消えない言葉がある。
それはただただ自分にとって都合のいい賛辞の言葉だけではなくて傷付いた言葉もあるかもしれない。
けれど残っている、ということはそこに言葉の火種が残っているからであって、それが成長の糧になるのか恨みの毒になるのかは分かる術も無いけれど、気付いているから再び火が灯るのであって、気付いていなければ始まらないことばかりなんだよね。

最近言われた言葉でずっと胸に残っていることをひとつ。

本来そこにいる人ではないー。

言った本人は何気なく言った言葉かもしれないけれど、この言葉だけで今年の上半期は乗り越えられる。
いや、ずっとかもしれないよ。
だから大晦日も正月も、心に大きな励みと栄養を与えてもらえたことを感謝しています、ありがとう。

2015年の今年、出逢いも大事にしたいけど、大切にしたいものはハッキリと見えています。
頑張ります、こんな俺だけど今年もどうぞよろしくお願いします、という気持ちを込めて。

2015年という新しい一年に、ワンダフル!

巨乳と漢字を考える

  • 2014.12.24 Wednesday
  • 23:22


巨乳。きっと男なら大多数の人間が魅力を感じずにはいられない響きだと思う。
少し前ならケータイで巨乳と打っても漢字変換ですぐに巨乳とは出てこなかったのに、自分のiPhoneで打ってみるとすぐに巨乳と漢字変換されたので、文献的にも公式な名称として認められてきたのかもしれない。
けれどももう少し掘り下げてみようと辞書で調べてみると、巨砲とか巨峰は出てくるが、やはり巨乳は出てこない。
残念だ。やはり文献的に認められたというのは早計過ぎた。
というか、性なるクリスマスの夜に何を調べてるんだ、という感じである。
あ、間違えた、聖なる夜だった。

それにしても漢字というのはきっと男が作ったものなんだろうな、と僕は思う。
例えば「好」
女と子供を合わせて“好き”と書く。
女子供は可愛い、大事にすべし、とも捉えられるし、単純に男が女子を好きだからそれをくっつけて“好き”としたとも考えられる。
それから「始」
女を台にして“始める”と書く。
これは何だ、ずいぶんと男尊女卑的で偉そうな漢字だ。
女を台に、、、これは考えようによってはかなりいやらしくも見えてくる。

いやらしいと言えば「狙う」という漢字もなかなかだ。
編と作りを切り離して眺めてみると、後ろからケモノを狙う“目”がかなり陰険でいやらしく見えてくる。
それから「娘」
良い女なら“娘”になるが、女もあまりに兼ねすぎれば“嫌”になる。
ひと文字ではないが「愛撫」もそうだ。
愛があれば手なんか使うな、という意味だろうこれは。え?違うのか?

しかし何だ、こうして書き並べてみると、何だか本当に漢字は男の都合のいいように作られたような気しかしてこないが、なるほど!と思わず唸るのは「母」という漢字である。
女に種を付けてそれを大事に囲ってあげると一転して“母”となる。
母という漢字をじっと見つめていると、身重な女がゆっくりと歩いている姿に見えてくるから不思議だ。
これは我ながら素晴らしい発見だと思う。

そこで巨乳、すなわちスーパーフルーツの話である。
前置きが長い割にはかなりどうでもいいことを書いているような気がしてきたのだが、ここまでくるともう止められないのでもう少し続けることにする。

今日、ある居酒屋で彼氏連れのものすごい巨乳の子がいて、これがまた結構可愛い女の子だったのだが、テーブルの高さと椅子の高さの関係上、向かい合う彼氏と前かがみになって話す際、そのスーパーフルーツがテーブルに乗っかっている姿が何ともエロく、それがもしその女の子が意図的にしていることなら、それは往年のプロレスラー、アブトーラ・ザ・ブッチャーが、試合開始早々パンツの中から長いフォークを取り出して、テリーファンクを痛めつけるくらい反則行為なんじゃないかと思った。
もし僕がレフリーなら、さっさとゴングを鳴らしてそのスーパーフルーツを取り上げるだろう。

傍にいた友人はその光景を見て、
「あれはクリスマスプレゼントですかね」
と呟いたが、そんなワケはないだろうバカやろう。
なんてナンセンスなことを言い出すんだ。
けれども今宵は何と言ってもクリスマスイヴ。
たかだが安居酒屋で、何が食べたい?なんて優しく聞いているそのヤサ男が、まるで一品料理のようにテーブルの上に乗っかっているその巨乳を見て、実際にどう感じていたかは分からないが、僕が本当に食べたいのはそのスーパーフルーツなんだよ、という心の声が確かに聞こえてくるようであった。

巨乳の女の子は、カシスオレンジを飲みながら美味しい!と笑う。
彼女の笑顔が嬉しいのか、彼女の巨乳が嬉しいのかは分からないが、彼氏はそれを見てとても嬉しそうだ。
そう、女が喜べば男は嬉しい。
女が喜ぶ、と書いて「嬉しい」とは、
まったく粋な漢字を考え付いたもんだと思う。

大人も子供もメリークリスマス。
巨乳にもメリークリスマス。

巨乳はやっぱり罪だと思う。
バカだな、男って。
ワンダフル。

アルバムとは何か

  • 2014.11.12 Wednesday
  • 12:11


夕べは大塚ハーツで、ギター近沢くん、ベースうみんちゅ、ドラム泰平くんの四人で奏でるナオトバンドのライブでした。みんなそれぞれの音楽活動の場があるので、なかなかリハスタにも入れずにぶっつけ本番になってしまうこともあるけれど、みんな個人技が優れているので、最近はライブ中に足りないモノを見つけたらそれを補い合うようなライブになっていると感じている。
しかしこの対応力は、個人技に加えて僕の曲をよく理解してくれているからこそで、だから近沢くんもうみんちゅも泰平くんも、サポートメンバーと呼ぶには何だか相応しくないのだけど、ライブ前、SEが流れる舞台袖でスタンバイしながら、そんな間柄というか信頼を感じている三人と握手をしてステージに送り出した後、僕はいつも深呼吸ひとつしてから遅れてステージにあがるようにしている。
ライブ前のスイッチの入れどころは幾つかあるのだけれど、その深呼吸をしないと始まらないし、そこが最後のスイッチを入れる場所だからだ。

しかしそれにしても、ライブの内容に関しては今回は触れないとして、ライブ中に指がつる、なんて初めてのことで、おかげで一番大事な曲の一番大事な場面で新人バンドでも侵さないようなあり得ないミスをして、ライブ後はかなりヘコむことになった。
だが一夜明けてこれは鍛え直さなきゃいかんぞ、と気持ちを新たにしているところである。
昨日観てくれたみんな、そしてメンバーのみんな、本当にどうもありがとう。

あ、そして昨日は同じ大塚でライブだったハロトレことハロー青空トレインのミキティとえりちゃんがわざわざハーツへ会いに来てくれた。
一年ぶりくらいの再会になるけれど、相変わらず小さくて可愛い二人だったなぁ!
彼女らの新しいアルバムは今日発売のようで、ひと足お先に頂いてきましたよ!
これからも変わらず頑張れハロトレ!



さて、つい昨日アップしたワンタイで、この二年間の野球選手としての僕の打率が一割にも満たないヘボ打者だった、ということが判明したので、一厘でも打率をあげるべく、今日もはよからバットを握り、黙々と素振りを続けるつもりでiPhoneを握っております。

朝出掛ける前に森山直太郎の「声」と中島みゆきの「時代」を部屋のステレオのボリュームを上げて聴いていたら、すっかり聴き入って出発する予定の時間を少々過ぎてしまい、あぁバスに間に合わない!とハネてどうしようもなくなった前髪を正しながら家を飛び出したわけだが、停留所へ着いてみるとバスはまだ来ていないようでホッと一安心。
しかし出掛ける前の曲として、直太郎と中島みゆきは実に相応しくない選曲だった。

それにしても僕はやっぱり歌モノが大好きのようで、良い歌、良い歌詞、良い声、このどれか一つでもすっぽりと当てはまると心が立ち止まってしまう。(まぁ当たり前のことだが)部屋でFMをよく流している僕としては、知っている曲、知らない曲関係なく、ついボリュームを上げてしまった曲、というのは琴線に触れた証拠で、そうなるとその曲が終わるまで周りの声があまり聴こえなくなる。そしてそのボリュームを上げたくなる曲の殆どはやっぱり歌モノの類で、踊り出したくなるようなアッパー系の曲やダンスチューンにはあまりそういう反応は示さない。
でも歌い出しから「君とセックスをした」みたいにインパクトある歌詞であれば、きっとヒップホップな曲でもボリュームを上げるだろう。
でも一昔前に、一生一緒にいてくれや、との歌い出しから延々と彼女にプロポーズの言葉を並べたような歌が大ヒットしたみたいだが、あれはまったく反応を示さないどころか、そこでFMのスイッチを切ってCDに切り替えたくらいである。

理由はひとつ。ラブソングは好き。君を愛している、と歌うのもOK。(個人的には「まるい月」を作った時に、初めて君を愛してる、というフレーズを書いて、いざ書いてみて、愛を口にするのはいいことだ、と思い直してそれを機に考え方が少々変わった)けれども愛にせよ自由にせよ正義にせよ、それを延々と多用されると一気に萎える。
あの歌に対する嫌悪感は、本人は愛を語っているつもりかもしれないが、ただへりくだった印象しか抱けなかったことにある。
というより、世の中そんな歌が多過ぎて、食べてもいないのにゲップが出る始末だ。

その先を見てみたいかどうか、という基準は、曲なら始めの二行、小説なら始めの五ページ、映画なら始めの十五分、といった感じで始めに集約されている、と考える。
そこに引力が無いとその後の展開に興味を抱くことにエネルギーを必要とするからだ。
だから掴みはOK!という言葉は本当だと思うし、男女の関係に於ける一目惚れ、なんていうのもまさにその部類だろう。周りに多くの人がいてもその好きな相手の声を聴きたくて耳は感度を上げようとするし、目は広角レンズから200mmレンズくらいの望遠レンズに瞬時に切り替わる。
それが恋のはじまりを知らせるサインであるように、曲にも声にも歌詞にも一耳惚れ、というのがあり、、、

あぁ、やっとここで直太郎の「声」と中島みゆきの「時代」に話が戻ってこれた、よかったよかった。
そんなわけで、そんな一耳惚れ曲の直太郎と中島みゆきを朝から聴いて過ごしたおかげで心がすっかり浄化されたような気分なのだが、やっぱりシングルだけではなくてアルバムを通して聴きたくなるよね。
今の忙しい世の中、電車の中でもサクッと観れるYouTube等は本当に便利でたくさんの恩恵にあやかれてはいるけれど、感覚的にはシングルを聴いている感じに近くて、やっぱりどうしても物足りなくなる。
以前、写真じゃあるまいし、どうして音楽アルバムのことを「アルバム」というのだろう、と考えたことがあるのだけど、まさに写真と同じで、一枚の良い写真を見ているだけでも恍惚とした気持ちになったり飾ってみたくもなるけれど、それが十枚から十二枚の組写真のようにまとまっていたら、あぁあの写真の景色を違う角度で撮ったヤツだ、とか、あ、こんな路地裏もあるんだ、とか、あ、ネコがいっぱいいる、とか、一枚の写真では伝えきれなかった景色や雰囲気がひとつの息吹となる。
お気に入りの一枚の写真でも充分。実際それを胸に忍ばせて特攻隊も海に散った。
スマートフォンの待受画面に愛息や愛娘の最上の写真をセットしている人もたくさんいるだろう。

だけど部屋の掃除などをしている際に懐かしい写真やアルバムが出てきて、その一枚を手にして眺めた時に、手を休めてソファーに身を沈め、時間をかけて開きたくなる。
それはまさにいつまでも大事に置いておきたいもので、それをアルバムといわずして何と言おう。
誰かに一枚の写真を見せて、ふーん、程度の反応で終わってしまうこともあるだろう。
でも中にはその一枚の写真を見せて、もっと他のも見たい!と言ってくれる人もきっといる。
そういう時に、趣のある表紙のアルバムをそっと差し出されたら、時はゆっくりと流れて身体の中に入ってくるだろう。
あぁ、だから音楽アルバムはそういう意味でアルバムという名称がついたのだろうな、と勝手に解釈したものだ。

でも一枚の写真でも今日を頑張れる。
今どき胸に一葉の写真を胸に忍ばせているような人はいないと思うけど、胸にスマートフォンを忍ばせて聴くお気に入りの一曲でも今日一日を頑張れる。
だから今も直太郎の「声」をiPhoneで聴きながらこれを書いている。

でも今日は、部屋へ戻ったらすぐにアルバムを聴こう。
あの、ゆっくりとした時の流れが身体にスッと入ってくる、あの時間を取り戻すのだ。
そして自分も、いつか誰かにとってのそんなアルバムを残したい、いや、必ず。
ビールと共に、ワンダフル。

歳を取る、とは

  • 2014.09.15 Monday
  • 22:25


歳を取るということはどういうことなんだろうか。
敬老の日ということでちょっと振り返ってみた。

歳を取るにつれて頑固になってきた気もするけれど、
歳を取るにつれて心は広くなった気もする。

三年前に比べれば体力が落ちたとも感じるけれど、
三年前に比べれば生命力はアップしたとも感じる。

五年前に比べれば、女のコのおっぱいよりも、
女のコのおしりのほうが好きになったような気もする。

十年前に比べれば元気はなくなったような気もするけれど、
十年前に比べればだいぶしぶとくなったようにも感じる。

昔に比べれば友達が減ったような気もするけれど、
昔に比べれば大事にしたい友達が増えた気もする。

焼肉を食べに行く機会もなくなって
食べる量も減った気がするけれど、
食べる焼肉の質にはこだわるようになった気もする。
いや、というより、すっかり魚派になった。

昔と今の時間の流れかたの違いを感じるにつれて、
特殊相対性理論の意味が今なら少しは理解出来そうな気もする。
いや…それはきっとウソだ。

でもきっと、生きてくために何が必要かだなんて、
ジョンレノンにだって分からない。
それに、思えばホントに必要なものなんて、
そんなにたくさんないんだろう。
多少のお金だけは除いて。

自分探しの旅をしていた若い頃とは違うのだ。
今は生きてゆく中で己を知ってゆかなきゃならないのだ。
それがまた、絶対的に楽しいことばかりじゃないからなおさら。

面白いのか楽しいのか、
無理なのか我慢なのか、
ズルいのか賢いのか、
アクシデントなのかハプニングなのか。

そんな微妙な感覚の中をきっと誰もが生きていて、
そんな微妙な感覚の選択は、
それぞれの経験値にかかっていたり、
それぞれの経験値によって変化したりする。

あぁ、歳を取ることが何なのかなんて、
そんな不毛なことを考えるのはヤメにしよう。

少なくとも俺は、今が好きだ。

誰かの心の体温を感じて嬉しいと思えるのは、
決して自分の感性のおかげなんかではなく、
やっぱりそこにあたたかいモノがあるからだ。

それが好きな相手ならなおさら。
それはそれは絶対的な力で。


心と言葉の大いなる引力

  • 2014.07.26 Saturday
  • 04:45


心。
結局何をするにもここに辿り着く。
最終的に信頼出来るものは
ここにしかない、というかね。

心のままに生きる、というのは、
正直になり過ぎることとは違う。
心を大事にする、というのは、
多角的に見れば正直さを隅に置いて、
時に我慢しなくてはならないことも含まれている。

そこで言葉がある。
心が始めにあるからこそ、
言葉が生まれてくる。
本来は。

それなのに不思議だよね。
医療から通信から、
何もかもが発達して進化しているこの世の中で、
言葉だけは進化するどころか、
どんどん退廃して汚くなっている。
「言葉は心で作られている」と言うのなら、
言葉を正すことで心も作られるはずだと、
俺はそう思っているのだけどな。

個人的には、昨今の日本語がワケの分からない略語やらに侵食されていることを、
すべて笑って看過することは出来ないのだ。
だって大事な部分を安易に簡略してしまったら、
省かれた言葉たちはいったいどこへ行けばいいのだろう。
それは思いやりさえも省いてしまうような気がするし、
先人さんたちが作り出した言葉への冒涜ともいえるではないか。

丁寧な言葉を使おう。
そんな極端なことは思っていない。
ただ言葉ひとつで心が穏やかになれるのなら、
こんなに簡単でピースなことはないし、
呼吸をするように毎日使うものだからこそ、
それを繰り返していれば習慣になり、
やがて心が作られる。

だから心がそわそわしたり
乱れそうなそんな時は、
言葉でウソをつけばいい。
それだけで心構えは変化するし、
やがて傍に寄って来る人間まで変わってくるものだからだ。

言葉は信じない。
それで結構。
でも心は見えないし、
心はウソをつけないよ。
だって心は宇宙だもの。
だから心を大事にするためには
言葉でウソをつけばいい。
徹底的に上手く。
それでいて詰めは甘く。

その中でそんな言葉を拾ってくれる人。
気付いてくれる人たちが、自分の心を作ってくれる。
気付いてくれる人たちを大事にすることで、
心の一番大事な部分も同時に温められる。
だから言葉で心は作られる。

愛についての喜びが、
愛してると言われることでも
欲しがることでもなく、
愛してる、と自ら口にすることで得れることと同じ。

それが心と言葉の大いなる引力なのだ。


本物のアルバム

  • 2014.01.23 Thursday
  • 05:10


アルバムを眺めている。ビールは切れてしまったので、こんな夜中だけれどもコーヒーを淹れて飲みながら、アルバムを眺めている。

昨年十二月のワンマンの際、毎回僕のライブを観に来てくれているお客さんの女のコが先頭に立って、その周りの仲の良いお客さんたちやその日来場してくれたお客さんたち、ライブハウスのスタッフの人たちが協力して一冊のアルバムを作ってくれて、先日十五日の新宿でのライブが終わった後に、ハイ!どーぞ!と僕にプレゼントしてくれたのだ。

真っ赤なアルバムの表紙には、ギターにネコにビールと僕の三大好物がフェルト地の絵となって型どられていて、ちょっと恥ずかしくなってしまうくらい大きな文字でナオトと書いてある。
アルバムの表紙を開いてみると、始めにカメラマンのお客さんであるスーギーさんが撮ってくれた写真や、ギターのちかちゃん、ベースの卓弥、ドラムの泰平くんの写真にそれぞれのメッセージが添えられてあり、次のページをめくってみると、今度はお客さんの写真とメッセージが添えられてある。その次のページも、その次も、そのまた次も、といったように。

全部で三十六ページあるアルバムの最後のほうには、あの日来場出来なかったけれども、僕に所縁ある人たちの写真とメッセージまで同じように収められていた。
普段面と向かって聞いたことなどないような言葉やふざけた言葉も、もうどれもこれも胸が熱くなるメッセージばかりで、あの日のライブだけでも胸いっぱいだったのに、こんな素敵なプレゼントまで頂いて、僕は本当に幸せ者だと思った。

いつの間にこんなことをしていたの?と尋ねてみると、随分と前からこのアルバムの企画を考えていたらしく、あの日受付で来てくれた人たちの写真を撮り、メッセージカードを渡して、そのようなことをしていることが僕にバレないようにと、恵比寿club aimのスタッフや、あの日オープニングアクトを務めてくれたもりきこの二人やメンバーのちかちゃん等に協力を仰いで、僕を楽屋に軟禁していたらしい。
もちろん僕自身、楽屋に軟禁されていた自覚はまるで無いのだが、それもそのはずで、開場前に表へ出てコンビニへ行ったりフロアをフラフラしている僕をaimのオーナーである村上さんが見つけると、

「もう!ナオトさんは主役なんやからそんなフラフラしてないで楽屋にドカッと腰を降ろしててください」
と、いやぁ、そう言われてもなぁ、と楽屋で落ち着くことを促されてみたり、O.Aのもりきこがステージに上がって開演した際に楽屋を出てフロアで観ようとしていた僕をギターの近沢くんが呼び止めて、

「いや、やっぱりナオトさんはメインなんだから自分の番まで表出ないほうがいいですよ」
と言われて、あ、やっぱそうかな、そっか、うん、じゃあ中にいる。
といったようにひどくナチュラルな誘導によって楽屋に留まらされていたので、のちに考えてみれば、すでにあの時からこのアルバムを作る為の計画が実に自然な形で遂行されていたことを知る。

でもね、昨年のワンタイにも少し書いたけれども、去年は人生初と言っていいほどのドロドロな人間関係に悩まされて、大事にしていたモノの幾つかを失った一年でもあり、同時に自らの未熟さも情けなさも知った一年であったので、一年の集大成ともいえるあの日のワンマンは、一番の目的である、観に来てくれた人たちに楽しんでもらいたい、という強い思いの裏側で、自分はまだそこにいていいのか、自分はまだ歌う価値があるのか、自分が歌うことで誰かの為になれているのか、との自らの問いを晴らすことも閉じることも出来る、いわば一つの答えが出るに違いない重要なライブだった。

そしてそれは結果として幾つか前のワンタイにも書いた通り、あの日観に来てくれた人たちやメンバーみんなのおかげで素晴らしい一日にさせてもらえたのだけど、あれから一ヶ月以上の時間が経って新年も明けて、再びあの日の会場の温度や空気、何よりもあの日会場に足を運んでくれたお客さんたちの思いをこのような形で知ることが出来て、見返すたび、読み返すたび、幾度も胸にぐっとくる。

これから先、自分が何かに迷った時、何かで元気を失くしている時に、必ずや心に確かな勇気と力を与えてくれるこのアルバムは、紛れもなく一生の宝物だ。
だってね、ホントこのアルバムを眺めながらビール呑めてしまうのだもの。

これね、俺が自分で言うのもおかしいかもしれないけど、愛でおっぱい。
じゃなくって、愛でいっぱい。
でも愛で溢れているけれども、アルバムだからしっかりそこに閉じ込められてるの。
本当のアルバムだなぁ、って、そう思う。

たくさんの曲が入ったCDって(昔はレコードね)アルバムって言うでしょう。
あれ、どうしてアルバムという名称で呼ぶようになったのか、このアルバムを見ていたらハッと気付いた。
ずっと大切なもの、だからずっとしまっておきたいもの、時々開きたくなるもの。
一葉の写真を手にして思い出や想いが溢れて、涙をこぼしながらも微笑んでしまうようなもの。
それが本当のアルバムなんだ、って。

だからもう一度言う。
これは本物のアルバムだなぁ、って。
宝物だなぁって。

このアルバムを率先して作ってくれたお客さんの女のコにはもちろんだし、協力してくれた人たちにこの場を借りてお礼が言いたいです、本当に本当にどうもありがとう。

一月も半ばを過ぎて、やっと今年初めてのワンタイ。
随分と遅い更新になってしまったけれども、今年初めて書くブログでこのアルバムのことに触れることが出来たことを嬉しく思う。
あらためて、自分は周りの人たちに生かされているのだと、支えられているのだと感謝することが出来て嬉しく思う。

2014年。
今年もみんなと一緒に笑いたい。
こんな俺ですが、今年も最後までお付き合いして頂ければ嬉しいです、本当に。

最後に、このアルバムに触れて書いてくれたギタリスト、ちかちゃんこと近沢くんのブログも貼っておきます。
『近沢博行のキョシューを放て!〜人間アーティストとスーパーマン』

あぁもう、これは本当に嬉しいなぁ、、、
この素晴らしき愛あるアルバムに、
心を込めてありがとう、ワンダフル!

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