出逢いを語る

  • 2014.10.01 Wednesday
  • 06:30


朝晩は上着が欲しくなるほどの涼しい陽気なのに、日中は強烈な陽射しが地表に降り注いで、思わず太陽を睨みつけたくもなるが、道を歩いているとそこかしこに薫ってくる金木犀が確かな秋の訪れを教えてくれる。
これで町の緑が赤や黄色に色付いてくると、いよいよ本格的な、大好きな秋の到来である。

別れの季節といって連想するのはやっぱり春。
出逢いの季節というとやっぱり夏。
そんなイメージが一般的にはあるものの、それでは秋はどんなイメージか。
春とは異なる物哀しさを感じる別れの季節。いや、それはちょっと違う。
僕個人的には、夏の終わりが四季の終わりで、秋からが四季の始まり、という感覚は昔も今も変わらないので、秋は始まりの季節だと思っている。

まぁどの季節に別れが多くてどの季節に出逢いが多いか、なんていう確かな統計が特にあるわけではないし、えー!人肌恋しく物哀しい気持ちになるのはやっぱり冬でしょ!
なんて言う人もいるのだろうが、いいんだ、これはあくまでも感覚とイメージの話なのだから。

出逢いに関して言えば、自分は今まで本当に人との出逢いに恵まれてきたなぁ、と出逢えたことや出逢った人たちへの感謝の気持ちは年々増すばかりだけれど、いい出逢いというのは、誰も彼にも与えられた受動的な偶然を、それぞれ個々の力でどれだけ素敵なタイミングへと押し上げられるかということで、それでこそその偶然が素晴らしい出逢いへと昇華するものだと僕は思っている。
出逢う機会がどんなに多くても、互いの心を通じ合わせることが出来なければ、いや、通い合わせようと少しでも自分から働きかけなければ、それはただの偶然で終わって、やがて流れてしまうことのほうが多いはずだ。

そうして互いに心を通わせた結果として、海の見える緑の丘で告白をしました、とか、桜の見える橋でキスをしました、とか、そのような劇的な出来事へと繋がってゆくのだ。
だが、劇的な出逢い、となるとまた話は別だ。
なぜなら劇的な出逢いは計算してどうこう出来るモノではないからだ。
しかし僕が以前、音楽の仕事で頻繁にお世話になっていた人の、奥さまと出逢いの話が実に劇的で可笑しいのでちょっと紹介することにする。

ある日、いつものようにあるコンペの歌詞を書いて提出し、歌入れも済ませて、お疲れさまでした、と呑んでいる際、
ところで奥さまとはどんな風にして知り合ったんですか?
とホロ酔い気分で尋ねてみると、氏は何の躊躇も無く笑いながら、マクドナルドです、と答えた。

「マック?あのマックですか?なぜにマックで!」

驚きで目を丸くしつつも、マックで出逢った、という、ありそうでなさそうな、そんな興味をそそられるその氏の答えに僕は本格的な興味が湧いてきた。
氏と奥さまが以前マクドナルドで働いていた同僚同士だった、ということなら話は簡単なのだが、それではちっとも劇的なんかではない。
そんな話ならその辺にいくらでもゴロゴロ転がっている話だし、聞きたいのはそんな陳腐な話ではない。

「いや、マックに客として入って食事をしていたら、同じように客として来ていた嫁が、僕に思いっきりコーヒーをこぼして、わ!ごめんなさい!ごめんなさい!って」
「それでですか!」
「うん、それで嫁がクリーニング代に、と言って僕に千円札を押し付けてきたんですよ」
「ええーー!」
「それで僕はいいからいいから、って言ったんだけど、そういうわけにはいきません!って嫁も引かなくて、だからね、わかった、じゃあこの千円でお茶しに行こう、って」
「誘ったんですか!」
うん、と答えて氏は恥ずかしそうにニッコリと笑った。

何だかドラマでも観ているかのように劇的な話だ。
聞けばコーヒーをこぼされた時にパッと見上げて一目見た瞬間から、
あ、この子可愛いな、と氏は思ったらしく、
加えてそれが氏のタイプだった、と言うのだから、そんな漫画みたいな展開があるのか、と二度驚きである。
これなら先日の恵比寿でのライブMCでも話したように、女の人が運転するBMWに轢かれて痛がっている僕のもとに、
「大丈夫ですか!」
と慌てて駆け寄ってきたBMWの女の人がとんでもないお金持ちの未亡人で、加えてスレンダーなくせしてとんでもない巨乳で、大丈夫です、大丈夫です
と言って去ってゆこうとする僕に、
「そんなわけにはいきません!」
と言って僕の腕を掴んだ際にその巨乳が僕の腕に触れて、
その後、せめてお詫びに、と後日誘われて食事に行き、そこからいい関係が始まる、
といった長年の僕の妄想という夢も、決してあり得なくない話なんじゃないかという気がしてきたものだ。

「すごいなぁ、いい話だなぁ、で、それを機に付き合い始めたというわけですね!」
僕は勧められるがままの日本酒をクッと呑んで言う。
「うん、それでそのお茶をした時に次に逢う約束をして、次のイタ飯屋のデートの時に結婚しよう、って…」
「言ったんですか!!」
「うん」

何だかトルストイの小説でも読んでいるかのように劇的な愛の物語だ。
聞けばその二度目、いや、初めてと言っていいデートで氏が結婚を申し込んだ際、思いもしない氏の突然の求婚の言葉に驚いて、きっと言葉を失くして頬を赤らめたのかと思いきや、奥さまは手元にあったフォークをガバッと掴んで勢いよく氏の喉元に突きつけ、
「遊びだったら殺すわよ」
と真顔で言ったらしい。
まるでR指定のドロドロとした肉愛映画の成れの果てのシーンのようだが、成れの果てどころか、これは始まりのシーンである。

「えー!あのAさんがそんな狂気に満ちたことをしたんですかー!信じられない!」
僕はケラケラと笑ってまた日本酒を口にした。

ワケの分からないことで喧嘩ばかりして、最近は会えてはいないけれども、結婚して二十年以上経った今も仲の良いこの夫婦のことが、僕は大好きなんである。

だから諸君、劇的な出逢いを求めているならマックへ行け。
そして好みのタイプを見つけたら思いっきりコーヒーをこぼせ。
そうすればそれを機に素敵な出逢いと展開が…
待っているワケないんだよな。
きっと素敵どころか相手に火傷でも負わせてしまって訴訟問題に発展してしまったり、BMWに轢かれたい、という僕の夢も、いざ轢かれて、やった!と思っていたら、運転席から出てきたのはスレンダーな巨乳でも何でもなくて、ただのヤクザだった、というのがオチなのだ、きっと。

だから貧乏人は笑ってろ、という僕の座右の銘のように、
出逢いを求めるのなら、とりあえずいつも笑っていればいいのだ。
笑う門には福来たる、コレ、本当だからね。

ちなみにその氏と奥さまが初めてのデートをして結婚を申し込んだイタ飯とは、東京は麻布の奥まった路地にある隠れ家のような『チンチン』というお店で、その時、氏と奥さまの傍らには俳優の陣内孝則や奥田瑛二、女優の鈴木京香や松下由樹等が会食していたそうだ。

というのはウソで、傍らに陣内孝則や奥田瑛二や鈴木京香や松下由樹がこぞっているわけがない。
隠れ家『チンチン』?確かにチンチンはイタリア語で乾杯!という意味だが、麻布の隠れ家がそんな露骨な名前を屋号にするわけがない。
実際はチンチンでも何でもなく、女子高生やファミリーが傍らに多く集う『サイゼリア』だったそうだ。
マックで出逢ってサイゼリアで求婚。
この庶民感覚。しかしこの庶民感覚こそが、二人が今も仲良く暮らすことが出来る秘訣なのかもしれない。
結婚生活なんて、庶民感覚が無ければ楽しめないものだからね。

ということで今日から十月。
今年もあと二ヶ月と考えると、ホント一年の早さに驚いてしまうね。
バスを待ちながら金木犀をパシャリ。
それにしても金木犀って、薫りはいいけど写真栄えしない花よね、ワンダフル。

イメージを語る

  • 2014.02.07 Friday
  • 03:24


イメージを抱くことは大事だ。
それがしっかりとしたものであればあるほどもちろんいいに決まってるけど、
漠然としたものだってイメージがそこにあるのならそれでいい。
だってイメージ出来ないモノには本気で向かっていけないもの。

仕事だって恋愛だって、俺は三年後には年収一千万に届いているはずだ、とか、
俺はあの子とやがてはいい関係になっているはずだ、とか、
想像するだけなら幾らだって自由だし、
出合い頭や不意打ちのような事故的な出来事は特例だとしても、
そもそも想像すら出来ていないことが現実に起こる確率は、
想像している時のそれと比べれば、限りなく低い。
だからどんなハッタリ野郎に成り下がろうとも、口にしてしまえばいいのだと思う。
そうすれば、始めのうちは周りから冷ややかな目で見られる時期もあるかもしれないが、
そういえばあいつがあんなこと言ってたぜ、ちょっと声掛けてみようよ、
なんてひょんとしたことからチャンスが舞い込んで来たりして、
思わぬ成果をもたらしたりする。

ただこれは、思わぬ、ということでも無い。
タイミングそのものは外的にもたらされたモノであったとしても、
自分の中でイメージとしてずっと準備していたからこそ、
その瞬間が訪れた時に対応出来ることでもあるのだ。

昔、音響の派遣のアルバイトで泊まり込みでパシフィコ横浜を訪れた際、
アルバイト先の先輩と休憩がてら山下公園まで足を伸ばしておにぎりを食べている時、
その先輩は僕にこんなことを口にした。

「鈴木くん、釣りをする時に必要なモノって何だか分かる?」
「んー、そりゃ釣り竿にエサですよね」
僕は格段深く考えることなく、当然のように先輩に答える。
「うん、正解。でもね、釣り竿にエサだけじゃ魚は手に入らないんだよ」
「どういうことですか?」
僕がそう尋ねると、その先輩は煙草を大きく吸った後で、ふぅー、と再び大きく吐き出しながらこう言った。
「どんな立派な釣り竿があっても、どんな食い付きのいいエサを仕掛けても、いざそれを釣り上げた時に魚を保管するクーラーボックスを用意しておかなきゃ意味が無いよね。じゃなきゃその魚はどうする?きっと持ち帰って食べる頃には痛んじゃうよね」

あの時の先輩との会話は、あの頃からもう十五年以上の月日が経とうとしているのに未だ頭を離れることなく、
その時の山下公園の光景と共に時々僕の頭をふとよぎる。
昼下がりの何でもない、他愛のない会話だったけれども、
実に的を射る言葉を、実に賞味期限の長い言葉を、
まだ若輩者であった僕にもたらしてくれたと思う。

だから話は逸れたけれども、きっとイメージしておくということは、
つまりクーラーボックスを用意しておくことと同じように大事なことだと思うのだ。

好奇心も大事だよね、極端な言い方ではなく、
好奇心こそがすべて始まりの入り口だと思うもの。
あぁ、あの子可愛いなぁ、オッパイ大きいなぁ、裸になったらどんな感じなんだろうなぁ、
とかそういうことを書くといきなり陳腐になりがちだけれども、
男は空想の中でなら好きな女の子なんてとっく脱がしているし、
それはまったくもって健全な発想だ。
けれどもそうしたイメージをずっと頭に描いていると、
本当にその子のオッパイに辿り着けることもあったりして、
人生とはある程度のことならイメージした通りのことが実際に起こり得る、
玉手箱、いや、びっくり箱ようなモノだと感じている。

ただイメージも好奇心もほうっておけば泉のように勝手に湧いてくるわけではない。
イメージも好奇心も、日頃からしっかり意識をしてその思考を稼働させておかないと、
ハッと気付いた頃にはすでに枯れている。
例えば若い頃から趣味の一つも自ら持とうとしなかった人が大人になって親になり、
子供も大きくなって手が掛からなくなってきたからそろそろ趣味でも持とうかしら、
などと思ったところでそれはすでに手遅れなのだ。

なぜなら心が若い頃からイメージすることや好奇心を育むことを放棄してきたような人間が、
大人になっていきなり趣味を持とうとしても、
長い習慣の中で培われた無関心や怠惰といったモノはそうそう身から剥がすことは出来ないし、
そもそも大人になってからいきなり夢中になる趣味を手にした人を殆ど見たことがない。
趣味を持っている、というのは裏を返せば好奇心がそこにあるからであって、
趣味が道を開いてゆくのでなく、
好奇心こそが道を切り開いてゆく武器となるんだよね。

けれどそのイメージも、使い方を誤ると一転してダメージにもなる。

どこからが想像力が乏しい人、と言うのかはなかなか難しいところなのだが、
想像力の乏しい人と話をしていると、本意ではない部分で説明的になり過ぎてしまったり、
必要以上のことまで口にしたり言ってしまったりすることになり、
相手に対してはもちろん、自分に対しても失望してしまうことがある。
そしてそれを通り越してしまうとただの疲労感しか残らないわけなのだけど、
想像力があり過ぎてしまう人というのも困ったもので、
それはそれでただの迷惑でしかなかったりする。

生き物というその本質から、嫉妬心を抱かない人間などいない。
けれども嫉妬心があまりに強い人というのはそのイメージする力が強いが故に、
想像から誤解、そして暴走した妄信へとその形を変えて、
こちらが想像をもしないような展開に発展することが度々あるのだ。
そう、ダメージ。
イメージはダメージ。

彼と同棲中だというある知り合いの女のコは、飲み会で程よく呑んで気分良く帰宅した後で、
その飲み会に男がいた、というだけの理由で彼が嫉妬心に狂い、
口説かれたのか、ヤッたのか、と月も吹き飛ばされるかのような詰問の嵐が明け方まで続き、
揚句の果てには、こんなに好きなのに、こんなに好きなのに、と泣きじゃくるという。
同じ男として情けなすぎる。
そんな男は遥か彼方の成層圏までぶん殴りたくなる気分だ。
そんな軟弱極まりない男などとは早く別れてしまえ、と思う。
というか、言った。

男にせよ女にせよ、そんなことを言う人間に限って、
では飲み会にも行かずに傍にいてあげればそれ以上に充実した、
有意義な時間をもたらしてくれるのかといえば大低はそんなことはない。
同じ部屋にいても遊んでいても気の利いた話をするワケでもなく、
テレビを見たりゲームをしていたりボーッとしているだけで、
ただ彼女(彼)が傍にいるというだけで、自分が勝手に安心した気持ちに浸っているだけなのだ。

なので想像力の乏しい人や、極端に想像力が強い人というのは、
同時に現実を見る力や自分を客観視する力がひどく欠如していて、
それぞれ相手のために想像を働かせて思いやっているつもりかもしれないが、
実際には自己愛と自己顕示欲の為だけにエネルギーと想像を働かせることしか出来ていない。

いるでしょう。
あなたのことは私が一番知ってるのよ、
あなたのことが好きだし、本当に応援しているのよ、
と殊勝なことを口にしながらも、実際のところは自分を見つけてもらいたいだけで、
相手を愛すことよりも自分が一番に愛されることに一生懸命な、そんな人。

それもイメージと同じ。
人に愛されたら誰だって嬉しい。
けれどもその前に、自分から相手を愛することが出来たら
どんな歓びや豊かさを手に入れることが出来るのか、というイメージを抱けていない。
先述したように、嫉妬心を抱かない人間なんていない。
けれども愛されることだけを望むことは、
嫉妬心を超えてただの執着しか生まれない。
そして結果的にあっちへ行ったりそっちへ行ったり、
自分を愛してもらえる場所を探し歩く長い旅へ出ざるを得なくなるのだが、
やっと見つけたと思ったその拠り所は、
残念ながらそれは拠り所ではなくてただの酔い所だったりして、
酔いが覚めると再び長く小さな旅へ出ることを繰り返すのだ。

ずっと昔、プロ志望だと言うわりにはレッスンのたびにあまりに想像力も集中力も欠如した、
つまらない歌い方しか出来ない二十代の女のコがいて、
それが彼女の意図的なやり方ではないことを確かめた後で、

「長い文章を書くのなら幾つかのプロットを立てたり、映画を撮るのなら何十枚かの絵コンテを作成してイメージを固めていったり、単純に絵を描くにしてもデッサンを描いてみたりするように、歌を歌う時にはそれぞれの場面を頭に描いて、一曲を歌い終える頃に一枚の絵やドラマが完成するようなイメージを持って歌わなきゃ。上手い下手なんて今はどうだっていいんだから」
と言ったところ、

「私は絵を描いたことがないから分からないです」

と言われてガクッとしたことをよく覚えている。
そういうことを言っているんじゃないんだ、と。

よく観察してみよう。
服のセンスにせよ話のセンスにせよ、
趣味にせよ部屋のインテリアにせよ、
人との接し方にせよ言葉選びにせよ、
加えて持っているモノにせよセックスにせよ、
これはひどい、と思えるモノには全体を捉らえるイメージが欠如しているはずだ。

まぁ、それを私は(僕は)そんなモノには興味が無いので、
と言われてしまえばそれまでの話なのだけど、ね。

Re: 字を語る

  • 2014.01.28 Tuesday
  • 21:20


今や我々の生活の中で電子メールは必要不可欠なツールに昇華して、
手紙という存在をはるかに凌駕してしまったことは否めない事実だが、
だからといって手紙が世の中から失くなってしまうとは思わないし、
今後も個々それぞれの存在意義を見いだしてゆきながら共存してゆけるのではないか、と考える。

けれども電子メールが文字コミュニケーションの主役となってしまった今、
なかなかその相手の書いた字を見る機会というのは
昔よりはるかに減ってしまったと感じているのだが、
それでもやはり手紙というのは良いもので、それを手にした時や封を開ける時、
そこに書きしたためられてある文字をゆっくりと目で追っている時のあの時間は
メールのそれとは比べものにならないほど気持ちが高揚し、
それを書いてくれた相手の気持ちが真摯に伝わるものだ。

時々、ハッとするほど達筆な女の子に遭遇する。
あれは実に素晴らしい。
その美しい字の隙間から、その人の深い教養や知的な何かが滲み出てくるようで、
読む側のこちらの背中までピシッとさせしまう、そんな力を持っている。
ただ、絶対に字が綺麗でなければいけない理由なんてないし、
男は、小さくて丸く柔らかい、そういったモノになぜか弱い生き物だ。
だからぼくはスリムな女の子よりも少しポッチャリしている女の子のほうが好きだ。
いや、今はそういう話ではなくて、ぼくは女の子の書くあの丸っこい字がとても好きだ。
あの可愛らしい丸い字は、ぼくをとてもやわらかい気持ちにさせてくれる。

けれどもこちら側の想像や許容範囲をはるかに超えたひどい字を書く
女の子に遭遇してしまった場合、話は別だ。
むろん、字だけで相手の人間性を判断してしまうほどぼくは愚かではないが、
ぼくには今思い出しても忌々しい、字にまつわる苦い思い出がある。

ひと昔前、世田谷は駒沢のアパートで暮らしていた頃に、
空き巣被害に遭ってCDを数百枚盗まれてしまったことがあるのだが、
もうその時の悔しさといったら、二十代中頃に友人と呑んでいた新宿歌舞伎町で、

「五千ポッキリでいいよ兄ちゃん!」

というポン引きの兄ちゃんの言葉に誘われるまま友人共々中へと入ったものの、
女の子を前にすっぽんぽんの裸になった後で、
あと五万円出しな、と言われて憤慨した時くらい、それはそれは悔しい出来事だった。
あの時は電光石火の如く服を着て逃げたのち、
ポン引きのあの野郎をぶっ飛ばしてやろうと友人と二人歌舞伎町を探し回ったものだ。

空き巣被害に遭ったその日の夜、ぼくは自分がそんな被害に遭っていることとも知らず、
ある女の子と三軒茶屋で呑気に呑んでいたのだが、
彼女が終電を失くしてしまったこともあってウチへ泊まらせてあげることになり、
朝方の四時頃、ぼくのアパートへとタクシーで一緒に向かった。
そしてアパートへ到着し、お互いシャワーを浴びて、さて、それでは始めますか!
ではなくって、音楽を掛けながらまた呑み直そう!とステレオ付近に目をやった時、
CDラックに収まりきれなくなってそのラックに積み上げていたはずのCDが
そこから丸ごと消えていることに気付いた。

「あれ!? ねぇ、今日地震とかあったっけ?」

CDを積み上げていたラックと部屋の壁の間には大きな隙間があった為、
地震か何かがあって積み上げていたCDが崩れて向こう側に落ちたのかな、
と考えたぼくは、その隙間を覗きこみながら彼女に話し掛ける。

「地震?えー、分かんない、あったかなぁ」
「だよなぁ、地震なんてなかったよなぁ」

ぼくはそう言いながら壁とラックの隙間をいつまでも覗き込んでみたが、
注意深く見た限り、そこから大量のCDが崩れ落ちたような形跡はどこにもなく、
そこだけでゆうに五十枚はあったであろうCDが、跡形もなく忽然と消えていた。

正体不明の不安がぼくの胸に押し寄せて、一つの引き出しにCDが四十五枚、
全部で四百五十枚収容出来るCDラックの引き出しを一つガバッと引いてみる。
無い、、、何も無い!
空っぽになっている引き出しを見て、瞬時にして体が凍りついた。
そしてその隣の引き出し、またその下の引き出し、と続けざまに開けてみると、
全部で八つあるうちの四つの引き出しすべてが見事スカスカの空っぽになっている。
そんな信じられぬ光景に酔っ払った頭を激しく蹴飛ばされたぼくは、
そこで初めて自分の身に何が起きたかを知った。

「○○ちゃん!空き巣に入られた!」
「えぇぇーーっ!!!」

ぼくは六畳一間の狭い部屋の中を、まるで広大な海でも見つめるかのように
目を見開きながら慎重にゆっくりと見渡した。
二台の一眼レフにロシア製のトイカメラのロモはある。
愛器のギブソンのギターも無事だ。
鞄の中、キャビネットの中、押し入れの中、挙げ句は冷蔵庫の中まで
ぼくはすべてをくまなく調べてみたが、それらは不自然なまでに
ぼくが部屋を出て行った時のままの形でそこにあり、ただただ数百枚のCDだけが、
仲の良かった奥さんがある日突然蒸発してしまったように、虚しく姿を消していた。

そしてふと、まだ確かめていない場所がトイレだ、ということに気付くと、
空き巣犯の犯人がまだこの部屋の中にいてトイレに潜んでいたら、、、
と考えたぼくはひどく身震いがして、キッチンにある唯一の調理道具である
雪平鍋を武器替わりとして手に握りしめると、
それを大きく振りかざしたままの格好でトイレの扉を勢いよく開けた。

「あーーっ!」
「どうしたの!」
彼女が大きな声でぼくに声を掛けた。
「つ、使われてる、、、」
「えぇーっ!」

何とそこには犯人がしたと思われる流し忘れたウ○コが
どっさりと便器に鎮座していたのだ!
、、、とでも書けば恰好のネタになったのだろうが、幸いなことにさすがにそれはなかった。
それならなぜトイレを利用されたと分かったのか。
ぼくはトイレを出る際、スリッパをきちんと入口に向けて脱ぐのだ。
それが見事逆になっている。
このスリッパの脱ぎ方はオレじゃない、、、
マジか、、、人ん家に盗みに入っていながら何だその余裕、、、
どれだけ常習犯の野郎なんだ、、、

猛烈な怒りと恐怖の入り混ざった感情を抱きながらも、
盗まれたモノが大量のCDとトイレの水だけだった、
ということをこの目で確認して少しだけ安心したものの、
その盗まれたCDの中には友達のモーリーから借りていて
すでに廃盤になっているスライやブライアンウィルソンのCDが含まれていて、
それを友だちのモーリーがひどく大事にしていたことを充分過ぎるほど知っていたので、
ぼくはまずモーリーに電話をして事情を話した後、本当に申し訳ない、と詫びた。

けれどもモーリーは明け方のそんな迷惑な電話にも関わらず、
そんなことはどうでもいいからすぐに警察に連絡しなきゃ!と言って、
少なからず動揺しているぼくを優しく励ましてくれた。
しかしその日はアルバイトの為に数時間後にはもう起きなければならなかったし、
今から警察を呼んだとしても何やかんやと朝まで掛かるに違いない、と考えたぼくは、
まずこの酔いと動揺している気持ちを落ち着かせるためにもとりあえず寝よう、
と考えて、盗まれたCDの行方に気をもみつつも、
傍で心配してくれている彼女をなぜかぼくがなだめながら、
薄い布団の中へ一緒にもぐり込んだのだった。

あくる日、病的なまでに朝に弱いぼくが朝の七時にはきちんと起きて、
夕べのことは夢だったかもしれない、ともう一度CDラックの引き出しを開けてみたが、
やはりそこにはCDではなくただの絶望だけがぎっしりと詰まっていて、
その現実は朝っぱらからぼくをひどく暗い気持ちにさせた。
その日仕事が休みだという彼女には、部屋にはいたいだけいていいけど、
カギだけはよろしく、と伝え、彼女を部屋に残してぼくはアルバイトへと向かった。
その日の午前中までにアルバイト先から世田谷警察に連絡を済ませ、
至急鑑識の人間と刑事を向かわせます、と迅速な処置を図ってはくれたのだが、
今はバイト中で、夕方でないとアパートへは戻れない、と伝えると、
それでは夕方にそちらのアパートへ向かわせます、
帰宅は何時頃になるでしょうか、と尋ねられたので、
だいたい十八時頃です、と答えると、
十八時ですね、分かりました、と警察の人は言って電話を切った。

とりあえず午前中に警察には連絡は済ませたこともあり一息つけたぼくは、
時間的にまだぼくの部屋にいると思われたその女の子には一応連絡しておこう、と思い、
警察には連絡した、鑑識が来てくれるって、だから心配無用、とのメールを送り、
アルバイト先の友人たちの協力もあって十七時キッチリにバイトを終えると、
そそくさと身支度を済ませて十八時少し前には駒沢の駅へと到着した。
駅に着いて改札付近まで歩いてゆくと、誰かがぼくに向かってニコニコと笑いながら手を振っている。
夕べの女の子だ。

「あれぇ、なんで?どうしたの?」
ぼくは驚いて彼女に尋ねる。
「なんか心配で、、、それに警察の人が来るんだったら私も証人として立ち会ったほうがいいのかな、と思って」
彼女はぼくに微笑みを寄せながらそう言った。
「確かに、、、確かに証人はいてくれたほうがいいかもしれない、そっか、ありがとう」
ぼくは彼女のそんな気持ちに感謝して軽く礼を述べると、
そんなひどいことする犯人なんてきっと見つかるよ!絶対大丈夫!
と、隣でぼくを励まし続ける彼女を時折見やりながらアパートへの道を歩いたのだった。

そんな我々がアパートに着いたのは十八時少しを過ぎていたが、
警察の人はまだアパートへは到着していなかったようで、
まだ季節は三月の早春とあって肌寒かったこともあり、
ボロアパートといえども、外にいるよりはマシな暖かい部屋で待つことにした。
そしてぼくは彼女を後ろにしながら鍵を開けてアパートの扉を開ける。

“カチャ…”

するとどうだ、本来ならば、朝方ぼくが部屋を出た時のままの光景が
忌々しく目の前に広がっていなければならないのに、
明らかに部屋の様子が変なのだ。
すると同時に、ぼくのすぐ後ろから彼女のはしゃいだ声が聞こえてきた。

「部屋がものすごく散らかってたから掃除しておいたよ!拭き掃除まで頑張っちゃった!」

ぼくは自分の目と耳を疑う。
これはウソだ、なんか悪い夢でも見てるんだ、と。
しかもなんだ、その、私いいことしてあげました!みたいに弾んだ言い方は!

「掃除!? 掃除したの?部屋を!」
「うん!」

つい先ほどまで感じていた彼女に対しての感謝の気持ちは、
アパートのすぐ傍を走る駒沢公園通りの向こう側へまで
ものすごいスピードで飛び越えてゆき、
傍でニコニコと笑う彼女を見て、この女はバカだろうか、と思った。
空き巣に入られて少しでも証拠や状況を現存しなければならない部屋を掃除した!?
しかも掃除機をかけて、ご丁寧に拭き掃除までしただって!?
なんだこの部屋!ものすんごくキレイじゃねーか!

「うん!じゃないだろ、、、これから警察が来るんだよ?これから鑑識が来てさぁ調べますよ、という前に証拠を消しちゃってどうするの!」

怒りとも呆れともつかない口調でぼくがそう言うと、
そこで初めて自分がしてしまった愚かな行為に気付いたのか、
彼女はハッとした表情をぼくに向けた後で、ごめんなさい、と小さな声で謝った。

「あーもう、、、」

ぼくはどこまでも沈みゆくかのような大きなため息を一つつくと、
当てどころを失った気持ちを懸命に抑えようと煙草に火をつけた。
ぼくのモヤモヤを象徴するように煙草の煙が部屋中に充満し、
ぼくの後ろでは彼女が泣きそうな顔で立ち尽くす。
なんだそのマリアナ海溝よりも深そうな落胆っぷりは。

泣きたいのはオレのほうなのにー!

こういう時、その相手との距離感が現れるな、あぁ、しくじった、とぼくは思った。
注意すべき時に言う。
つまり、正直な気持ちを口にして相応しき場面だからこそ、言いたいことはきちんと言う。

「おいおいコラーっ!何してくれとんじゃーっ!」

例えその時多少言葉が汚かったり悪くとも、ただそれだけ言ってしまえば、
とりあえず感情の収まりどころは保てるのに、
ぼくは時々、そのタイミングをみすみす逃してしまうことがある。

これを我慢強いと言ってしまえば聞こえはいいが、
実際にはタイミングを逃してしまったせいで今さら言えなくなった、
と言ったほうが正しくて、これはぼくが自覚している数ある欠点の中の一つでもある。
そんな自らの欠点のせいで、ぼくはこの日丸一日振り回されることになった。

そう思うと、言いたいことを気のままに言い合えるというのは、
一見相手に対しての思いやりに少し欠けていそうで、
実は最大の相性の良さを表しているのではないだろうか。

その後しばらくして、テレビドラマや映画などでよく見るぼくが知る限りの刑事像とは
だいぶかけ離れた感じの年配の刑事さんと鑑識のおじさんがやってきて、
現場検証を始める前に幾つかの質疑応答があり、
何を盗られたのか、それはどこにあったのか、
その時の状況を出来るだけ詳しく説明してください、
と刑事さんが言って一枚の紙をぼくに渡すと、
盗まれたと思われるモノを箇条書きで構わないので、
出来るだけ忠実に書いてください、と言ってぼくにペンを手渡した。

「忠実にとはいっても盗まれたのはCDだけです」
ぼくは手渡されたペンを持ったまま刑事さんに言った。
「何のCDが盗まれたかは分かりますか?」
「えー!それはちょっと分からないですね、まだちゃんと確かめてもないし、だってすごい枚数ですよ、盗まれたの」

それでも刑事さんは、思い付く限りのCDのタイトルを書いてください、と言うので、
ぼくは仕方がなく生き残っているCDを確かめながら、
スライ&ファミリーにブライアンウィルソンにジャニスジョプリン、
ザ・フーのトミーも無い、ビートルズも赤盤を残して全部、
オールマンブラザーズもジムクロウチもニールヤングも、
ストーンズもトムウェイツも、クリムゾンもフロイドも、
フェイセズもブルースブレイカーズも、浜省も斉藤和義も、
森高も中山美穂もみんなみんな盗まれました、
とまで書くと、ぼくはほとほと疲れてペンを置いた。

その後、刑事さんの質問一つ一つに丁寧に答えていたのだが、
部屋の中で所在なさそうに立っているだけの彼女を見た刑事さんが、

「あ、こちらは彼女さんですか?」
とぼくに尋ねた。
「あ、いえ、友だちです、ただ夕べ一緒にいて、、、」
「あぁそうですか、もしかしたら後で署名を頂くことになるかもしれませんが、その時はご協力をよろしくお願いします」
刑事さんは軽やかな口調で彼女にそう言うと、
彼女は、分かりました、協力します、と言ってまたニコニコと微笑んだ。

ちょっと待て、協力どころか、あなたすでに足引っ張ってるでしょうが!

そして刑事さんは部屋をグルッと見渡しながら、
部屋の状態は被害に遭われた時のままですよね?
とぼくに尋ねてきたので、
思わず返答に困ったぼくは、傍にいる彼女をチラリと見やった後で、

「いや、、、ちょっと、ちょっと違いますね」
と腕を組み直しながら伏し目がちに答えた。
「違う!? 違うというと?」
刑事さんは不思議そうな表情を浮かべながらぼくに言った。

ほら見たことか!やっぱり話がややこしくなった。
掃除しちゃったんです、なんて、ぼくは正直言いたくない。
けれどもぼくが再び彼女のほうを軽く見やってみると
彼女はすべての事の運びをぼくに任せているようで、
どうやら助け舟の一隻も出航しそうな気配すらなかったので、ぼくは仕方なく、
「いやぁ、あまりに散らかってたんでちょっとだけ掃除しちゃったんですよね」
と、申し訳ない素振りをしながら刑事さんに言った。

「えぇっ!掃除ですか!?掃除をしたんですか!?それじゃ被害に遭われた時と今の部屋の状況は違うと?」
「はい、、、」
「掃除をした!なんでまたぁ!うーん!それは困ったなぁ、、、」

刑事さんも鑑識のおじさんも、これは驚いた、といった表情でぼくを見つめて、
ぼくの趣味で天井に取り付けてある蚊帳を珍しそうに眺めると、
そのしわだらけの指でその蚊帳をつつきながら、
「弱ったなー、初めてですよ、空き巣に入られた部屋を掃除する人なんて!」
と、本当に呆れた、といった様子でぼくに言った。
刑事さん、違うんです、聞いてください、弱っているのは僕のほうなんです、
そんな言葉が喉元まで出掛かったが、そんなことを言ったところで
ちっとも意味がないことなど分かっていたので、
ぼくはそんな言葉を喉の奥へと押し込んだ後で、
「あー、すいません、、、」
と、頭を軽く下げながら謝った。
なんで被害者のオレが刑事に謝ってるんだ、と行き場のない虚しさがぼくを包む。

すると刑事さんは本当に弱ったような表情を浮かべながら、
好奇なモノでも眺めるかのように再び部屋をぐるりと見渡すと、
「それはどの辺りを掃除したんでしょう?」
とぼくに尋ねてきたので、さて、これはどうしたものか、と考えた。
どの辺りも何も、、、オレに尋ねないでくれ、オレは何も知らないんだ、、、
しかもなんだ、年配刑事特有の口調のせいもあるのだろうが、
なんだこの、逆にオレが尋問されているかのような気まずい気持ちは。

あぁこんなことなら始めから、掃除しました、
などと言わなければよかったのだ、とぼくは思った。
けれどもぼくは、長い年月を掛けて少しずつ集めてきた
大量のCDを一夜にして盗まれた被害者なのだ。
トイレの水はくれてやる、むしろよく流してくれた、と思う。
ただ、側近の女の子に部屋の証拠まで盗まれてしまったのは想定外だった。
けれどもやはり真実を話して、掃除をしたならしたで仕方がないと、
それを踏まえた上での現場検証を刑事さんたちにはしてもらわなければ、と考えた。
しかし掃除機も充分ひどいが、まさか拭き掃除までしました、
とはあまりにもバカげ過ぎてさすがに言えない雰囲気だ。

ぼくは、刑事さんの後ろで何を語るわけでもなく相変わらずただ立ち続け、
ぼくを励ますつもりなのか、時おりぼくに見せるそのニコニコを再び目にして、
空き巣に入られたことを知った時の怒りのベクトルが、
すでにそのニコニコに向けられていることを静かに知り、
おい、、、何なんだそのニコニコは、、、
協力したいと言いながらいつまでそこにボケッと突っ立っとるんじゃコラーっ!
と、ぼくは心の中で彼女のおしりを激しく蹴飛ばしながら、
これはDVじゃない、これはDVじゃない、と必死に自分を正当化し続けた。

「あぁ、まぁ、布団を畳んで、テーブルの上を片付けて、畳の上を掃除機でちょっと、、、ね?」
ぼくはまるで彼女と一緒に掃除しました、といった風に
彼女の目を見て確認を取るようにそう言うと、
ようやく私の出番がきたわ!のごとく、彼女はうんうん!と頷きながら同調した。

「掃除機を!!」
「はい、、、」
「なんでまたぁ!」

刑事さんは、つい数十分前にぼくがそのニコニコ彼女に見せた反応とまったく同じ反応を示した後で、やはりぼくとまったく同じ表情を浮かべながら深いため息を一つついた。
「あぁ〜、、、」
「あぁ、、すいません、、、」
なんでオレが彼女をかばってるんだ、と、やりきれない虚しさが体を包む。

その後、サスペンスドラマの中での殺人現場のシーンで
よく目にしていたような鑑識の場面が目の前で繰り広げられると、
ぼくと彼女はすることがすっかりなくなって、
鑑識のおじさんが指紋採取のためにパタパタとふりつける
銀色のパウダーが舞う様を静かに眺めた。

「一応終わりましたんで、私どもは帰ります。何か有力な情報が入り次第鈴木さんにはすぐ連絡しますので、簡単でいいのでこちらのほうに連絡先と簡単な状況説明、それと署名をお願いします」
と、コピーにコピーを重ねたような粗悪な作りの書類を渡されて、
分かりました、とぼくはその指示に素直に従った。
「あ、出来れば彼女さんのほうもよろしくお願いします」
刑事さんはそう言って彼女に書類を渡すと、
彼女は、ハイ、と言って、ぼくと同じようにその書類に署名を書き始めた。

その時、ぼくは見てしまったのだ。
どこをどうすればそんな字が書けるのだ、
と本気で疑うほど、劣悪極まりない字で綴られた文字の羅列を。
ちょっと待って、、、それは指でも怪我しているのとは違うよね、、、
ぼくは注意深く彼女の指先を見つめて確めてみたが、
字がきちんと書けなくなるほどの怪我を指先に負っている様子は見受けられず、
それでいて丁寧に、ゆっくりと、書面に自分の名を書き綴っている彼女を見て、
ぼくは見てはいけないモノを見てしまったような気がして、思わず目をそらした。

それはどう好意的に見ようと努力しても個性的な字だとは言い難く、
それを個性的というには、あまりにも壊滅的過ぎた。
ぼくはまるで観たくもないひどいオカルト映画の惨殺シーンを
映画予告で不意に観せられたような気分になり、
ぼくの頭の中は鳴門海峡の渦潮のようにグルグルと回り始めた。

刑事さんと鑑識の人が帰ってしまって静けさを取り戻した部屋で、
彼女はぼくに向かって、大変だったね、おつかれさま、とねぎらったが、
夕べから続いたこのゴタゴタのせいなのか、
彼女のあらゆる偶発的なサプライズのせいなのか、
ドドッと疲れが出て椅子に座り、煙草を取り出して口に運ぼうとしたぼくに向けて
彼女は再び二コニコと微笑んだかと思うと、

「ねぇ聞いた?彼女さん、だって。なんか嬉しくなっちゃった」
と彼女は言った。

「悪いけど、帰ってくれる?」

そう言ってしまえばよかったのだろうが、その一言が言えなかったがために、
ぼくは二日続けて彼女と飯を食うハメになった。
彼女の行為の根本は、ぼくに対してのその親切心からきているのだ、と
人がよすぎるほどに考えを巡らせてしまったからだった。
しかし夕べ彼女と呑んでいた時は、酔った勢いも手伝って、
愛嬌もあってかわいい子だなとは思っていたが、
その掃除事件と忌々しい字を見てしまった後では
そんな感情も見事にすっかり消えていて、
ぼくはたぶん、その日の夜は彼女の目を見ていない。

その後も彼女とは何度か酒を呑みに行く機会もあったが、
どうもその会話の内容にも物事の捉え方にも、
おまけに傍で口ずさむその歌にも馴染めることが出来なくなって、
これは相性の問題かとも考えたが、逢うたびにエスカレートする
ぼくに対してのそのニコニコにまで無性に腹が立ってきたぼくに残っていたモノは、
もはや負のスパイラルのみで、
彼女の携帯電話に取り付けられてある巨大な犬のストラップ、
頭にのせたサングラス、必要以上にバックがでかくて荷物が多い、など、
見るモノすべてに対して腹が立ってきたぼくは、
それが男らしくなく、実にずるい方法と知りながら、
その後音信不通という手段に出て、彼女との連絡を一方的に断った。

字が特別に綺麗である必要なんてない。
ぼくだって人のことは決して言えない字を書いている。
けれども何にでも限度ってモノがあるのだ。
ぼくはそれ以来、字の汚い女と、
旅行に行くわけでもないのにやたら荷物の多い女に遭遇すると、
とても不幸な気持ちになって、あの忌々しい一日を思い出す。
字が汚かったことだけが理由ではないが、決して悪い子なんかではなかったが、
何かにつけて巡り合わせが悪過ぎた。
そして今からでも遅くはない。習字とまでは言わないが、
せめて彼女にはボールペン字でも習っていただいて、
自分の名前くらいはしっかり書けるようになってもらいたいと、
余計なお世話ながら、今さらながら切に願う。

それから、微笑みは必ずしも人に幸福をもたらすわけではない。
もしかしたらすべての元凶は、彼女の字が汚かった云々より、
あの、時と場所をわきまえないニコニコにあったのかも分からないからだ。

どちらにせよ、とんだトラウマである。

ありがとうを語る〜大関東ギターエロス2013

  • 2013.11.17 Sunday
  • 02:40

2013.11.10 鈴木ナオトバンド in 渋谷O-WEST

森山良子の「さとうきび畑の唄」を聴いている。
ただひたすらに、ざわわざわわと繰り返されるあの曲だ。
ただ始めに言っておくと、別に僕は森山良子のファンというわけではない。森山良子の曲で知っている曲もほんの数曲程度だし、彼女の息子に至っても同じだ。
ただ、この「さとうきび畑の唄」だけは、この曲の中に登場する“ざわわ”という言葉があまりに耳に残るので、昔その数を数えてみたことがあるのだが、その数が実に六十六回にも及ぶことに驚いて、いったい何なんだろうこの曲は、と思い色々と考察を繰り返して聴いているうちに好きになってしまった、ただそれだけのことだ。
決してタイプではなかったけれど、一緒にいて楽しいので何度も呑みに行っているうちに好きになってしまった、そんな感覚に近いのかもしれない。
『さとうきび畑の唄』の作者である寺島尚彦氏によれば、この六十六回もの“ざわわ”のひとつひとつには、すべて意味があるのだという。

今年十一年振りに来日した元ビートルズのポールマッカートニーは、かつてリンゴ・スターのドラムについて、リンゴはビートルズの曲に関して、一度使ったフレーズは二度と叩くことのないドラマー、と称したことがあるが、森山良子の唄う「さとうきび畑の唄」の中の“ざわわ”も、よく注意して聴いてみると、ポールの言うリンゴのドラムと同じように、確かにすべて異なるアプローチと表現で唄われている気がしてくるから不思議だ。
けれどもこの十分にも及ぶ長い曲が、それでもずっとずっと流れていて欲しいと思わせるのは、この曲の中に柔らかくも深い哀しみや優しさを孕んでいるからなのだろう。

優しい曲や映画に出逢った時、僕は誰かに感謝したくなる。
その誰かとは、実在しない人間でもないし、自分とは関わりの薄い人間でもない。
自分が深く関わってきた人間に対しての、リアルな感情だ。
けれども哀しいことに、感謝したいその時にその人は自分の傍にいない、ということが人生の中に多々あり過ぎた。
そして渡すことの出来なかった言葉は、行くことも戻ることも出来ずにいつまでも宙に浮かんだまま、その存在意義を何度も見失った。
あの時、ありがとうのその一言が上手く言えなかった自分の心には、いったいどんなエゴが鎮座していたのだろう、と考える。
十度のさよならより、言うべきはずだった相手に言えなかった、たった一度の“ありがとう”の言葉は、さよならという事実よりもずっと重い。
そしてそのせいで、僕はいい歳をして年相応の哀しみの意味を、逞しさの裏に潜む痛みを自分が望む場所で見つけられないままでいる。
ありがとう、と言えなかったのは、それを言ってしまえば本当に終わってしまう気がしたからなのだろうね。
だから僕はいつも、じゃあねバイバイ、と言うだけで、その痛みを負うことを回避してきた。

時々、相手が自分のことを忘れてくれさえすればふらりと逢いに行けるのにな、と考える。
けれども、長い間置き去りにされた感謝の言葉は時と共にその有効期限を終え、ごめんなさい、という謝罪の言葉に形を変えてしまっていることが殆どで、有効期限を終えているということは賞味期限が過ぎているということでもあり、そんな賞味期限の過ぎた言葉は、仮に相手に伝えられたところで何の味わいも無い、すぐに吐き出されてしまう言葉に変わるのだ。
だから僕は思う。
生涯の中で心からのありがとうをどれだけ相手の正面を見て、目を見て言えたか。
それによって心の幸福度に大きな違いが出てくるように思う。

そう思うと俺はつまらないプライドと見栄と自我に惑わされている、未熟な青二才だとしか思えない。

でもね、先日十日に渋谷O-WESTで行われた大関東ギターエロス、というイベントライブでは、恥ずかしげもなく正直な感謝を述べたつもりだ。
ずっとサポートに入ってくれているギターの近沢博行くんにも、ベースの卓弥にも、ドラムの泰平くんにも、関係者各位の皆さまにも、共演者のみんなにも、そして目の前のお客さんにも、そして亡くなった友にも。

細かいことは抜きにして、あの日のライブはいいライブだったと思いたい。
だって以前のブログにも書いたように、上手くいっている時は周りのおかげ、上手くいっていない時は自分のせいなのだもの。
だから自分のせいにしたくないのではなくて、周りの人たちのおかげだ、って思いたいじゃない。
だからあの日のライブはいいライブだった、って、そう思いたい。
観に来てくれてありがとうじゃないんだよね。
観に来てくれたおかげで、いつも応援してくれているおかげでいいライブが出来たよありがとう、って言いたいんだよね。

胸がざわめいている、さとうきび畑の唄のように。
風は吹く。
北から南へ、南から北へ。
東から西へ、西から東へ。
風になりたいね、そして風にも吹かれたい。
本当に嬉しかったんだよ、本当に。
今年は色々とあり過ぎたから、あの日は余計に胸に堪えた夜だった。

一人で立てないわけじゃない。
でも周りの人たちがいなきゃ立つ気にもならない。
必要とされなければ部屋で一日中寝ているような、そんな人間なんだから。

このブログをどれくらいの人たちが読んでくれているのかは分からないけれども、あらためて言わせてね。

本当にどうもありがとう。
思い出作りのためにやっている音楽ではないけれども、あの夜の光景は一生忘れない。
メンバーのみんなも、共演者のみんなも、お客さんも。

正面を見て言いたいよ、本当にありがとうってね。
ワンダフル!ってね。
森山良子のざわわのように、ずっとずっと流れていて欲しいって、そんな風に思ってもらえるような歌うたいになりたい。
曲は変わらなくても思いは変わる。
だからライブで演奏するたびに成長してゆく。
だから同じ曲でも毎回違う表情で表現出来るような、そんな歌うたいになりたい。

それが何より一番の願いであり、一番の目標だ。

最後に、僕の隣で一年以上プレイし続けてくれている素晴らしきギタリスト、近沢くんのブログのリンクを貼っておく。

『近沢博行のキョシューを放て!〜大関東ギターエロス2013を終えて』


左から、Gu.近沢博行、B.高橋卓弥、Vo,Ag.鈴木ナオト、Dr.木本泰平


バンド仲間やお客さんたちが、打ち上げの席で誕生日サプライズしてくれた。
2013.10.31 新宿OREBAKOにて。



2013.11.10 渋谷O-WESTでのライブダイジェストムービーと来月ワンマンのメンバーのコメント動画

哀しみを語る

  • 2013.08.09 Friday
  • 02:57


哀しみをグラスの水に浮かべたら沈むだろう。
それは、重いからだ。
哀しみというのは沈殿している感情で、
そんな沈殿している感情を、
音楽や景色や、匂いや言葉や、
写真や映画といったものがきっかけというマドラーになって、
何の前ぶれもなく沈殿しているものを掻き回す。
その瞬間、沈殿していた哀しみが動きだして、
すべてを覆い尽くすのだ。

水は濁り、透明さの欠片もなくなる。
だから何も見えなくなる。
唯一見えているのは、それを手にしている自分だろう。
哀しみを見ないで、自分だけしか見ていない。

だから思う。
哀しみというのは、
きっとじっとする為に動いているのだ。
沈殿に向かって動いているのだ。

哀しみは消えない。
哀しみは沈殿している。

けれども、感じる、ということが、
動く、という意味だとしたら、
本当のマドラーは自分自身なのだ。

掻き回しているのは自分。
自分こそがマドラーそのものなんだろう。

けれども生きている限り、
じっとなんてしていられないだろ?

それなら飲み干してしまえ、そんなもの。
大丈夫、ほんの一瞬、ほんの少し苦いだけだから。

あとは抱きしめよう。
忘れる必要なんて無いのだから。

老いを語る

  • 2013.08.07 Wednesday
  • 16:30


小心者の自分にとって、恐れているモノをいちいち挙げていたらキリがないが、その中の一つに「老い」というのがある。
何を指して「老い」と言うのかをまずハッキリさせなければならないと思うのだが、そもそも老いというのはどこからやってきて、どこからが老いと言えるのだろうか。
ハッキリしたことは言えないけれども、老いというのはやはり内面から襲ってくるモノ、と考えるのが妥当な線だろう。
それは周りを見渡せば容易に見つけられることで、老いに限らず、女の子の可愛さ一つ取ってみても、心がムスッとした美人さんより、心がスカッとしたフツーの子のほうが可愛かったりする。
可愛く見えるのではない。実際に可愛いのだ。
これは、暗がりのクラブの中ではそこそこの女の子さえも三割増しで可愛く見える、などというような錯覚とはまるで異なる。

人間、三十、四十も過ぎれば、誰でも心に三つや四つくらいの荷物は抱えているもので、それは会社の立場であったり、借金であったり、年老いた親の存在であったり、住宅ローンや訴訟問題を抱えていたり、はては愛人が孕んでしまったり、それはそれは数え上げたら枚挙にいとまがない。
まだ一つや二つの抱えごとなら屁みたいなもので、今簡単に挙げた事柄を丸ごと抱えている人などその辺にゴロゴロいるし、まるで信じがたい責務を背負いながら一日一日を必死に生きている人がいることも知っている。
そんないかんともしがたい生活のしがらみに翻弄されながら人生が成り立ってゆけば、外見を始めとする物理的な老いの速度はもとより、心のほうがずっと早い速度で老いてしまうのも理解出来るし、それは致し方ないような気すらしてくる。

時々、鏡には映らない、自分では気づけない老いという影が、顔を含めた体のあちこちに確実に表れ始めているような気がして、鏡の前に立つことが恐くなる時があるのだが、なるほど、老いは決して歓迎出来るようなモノではないが、老いに対しての免疫は老いることでしか得ることは出来ないのだな、という覚悟を持ち始めてきたのも確かではある。

よく、僕は(私は)毎日充実した生活を過ごしています!なんてアピールまがいの内容を、ブログやらFacebookを始めとしたSNSに書いている人を見かけるけれども、それを続けてゆくとそれがやがて強迫観念にもなって苦しくなってゆきやしないかな、と余計なお世話ながら心配になる。
個人的には何も毎日を充実させなきゃいけないだなんて思わないし、むしろ毎日が充実していることのほうが不自然だとすら思っているからだ。
仕事や家事や子育てに追われ、それをこなすことだけで精一杯で、それだけで一日があっという間に終わってしまう人も多いだろう。いや、大人はそうした人が殆どかもしれない。
けれどもそれが充実していないのか、と言われたらそれは違う。
そもそも充実の基準はどこにあるんだ、という話にもなる。やることが与えられていて、それに対しての評価や対価がもたらされていれば、それは立派に充実した時間を過ごしたことにはならないか。

『双子のパラドックス』ってあるじゃない?
ある双子の兄弟の弟のほうが、光速で飛ぶ宇宙船に乗ってしばらく宇宙を旅して再び地球へと戻ってみると、出迎えた兄はすっかりお爺さんになっていて、宇宙船から降り立った弟のほうは出発する前と何ら変わりない姿のままだった、という。
まぁその双子のパラドックスの例は少し極端だとしても、現実の世界にもそうしたことは実際にあり得る話だとは思うよね。
それを現実に当てはめて考えれば、先述したような物事に翻弄されて、心を立ち止まらせるな、という風に考えることが出来る。無理に感じようとしたり動こうとする必要はないけれども、あまりに長い時間心を立ち止まらせてしまうと、その双子の兄みたいになってしまうよ、って。

結局、今の自分を取り巻く環境がそのまま半年後、一年後の自分に繋がるわけでしょう。今すぐ変わらなくとも、今自分の周りに置くモノを変えてゆけば必ず状況は変化する。その最もたる存在はやはり「人」だと思うのだけど、よく、ちょっと色々と考えたいから、といって長い期間引きこもる手段を取る人がいるけれども、あれは一番良くない方法だよね。誰にも会わないということは、他者の意見という風が入ってこないということで、環境が変わらない、ということは、それをそっくり一年後二年後の自分に持ち込むことになってしまうわけだからね。
引きこもる場所が図書館なら話はまた別だけれども。

だからきっと「老い」も間違いなくそうで、今自らの老いを感じてしまったとしても、その「今」をどうするかで、また一年後の姿が変わってきたりするものだと思うよね。
時々いるじゃない、出会ってから十年以上も経つというのに、会うたびに若々しくなっている人や、あぁ、この人年を取ったな、と思っていた人が、少し時間を置いて再び会ってみると、すごく若々しくなっていたとか。
そういう人は言葉までも生き生きとしていて、それを聞く人間に不思議な力を湧き起こさせてくれる。
だからそういう人に会うたびに思うのだ。
この人はきっと、心を立ち止まらせることなく、薄っぺらな充実という言葉だけに惑わされずに、今をきちんと意識して生きている人なのだろうな、と。

捨てることなんて簡単なモノばかりが傍に溢れていた僕の人生は、いつの間にか捨てれないモノばかりが傍に溢れる人生へと変わった。
それは歓迎すべきことだし、ずっと手ぶらで人生を歩けるワケなどない。
未熟だった自分のせいで、失った誰かを思って胸を痛めることもあれば、流れた時間の多さに不意に気づかされて胸が痛くなる時だってある。
そんな思いはこれからさらにその速度を上げるだろう。

僕の人生を賑やかにしてくれる家族や仲間たちの存在には本当に深く感謝しているし、きっとこれからもずっと大事にし続けてゆくに違いない。
だからこそそれと同時に、僕自身が一人の人間として、個人として賑やかな心を持ち続け、一人でいる時の価値をより高めてゆかなければならないと切に感じている。一人でいる時の自分こそ肝心なのだ、と。

だから僕は、これからもっと責任を持って何かに思いきり取り組み、責任を持って思いきり遊び、責任を持って思いきり笑う。

だから今日も僕は鏡の前に立つ。
決して取りこぼさず、放棄しない。
それが鉄則。

そして老いで何よりも恐ろしく、一番に表れるのは「言葉」なのだ、ということを肝に銘じて。



【追記】
そんなわけでチラホラと要望のあった鈴木ナオトのMC集を。
さすがにCDにするわけにはいかないし、一般に垂れ流したくはないし、そもそも作っておいてこんなものを誰が観るんだ、という気持ちでもあるので、ワンタイ読者限定で公開です(笑)

そんなわけで皆さま、実に気まぐれ更新なワンタイですが、今後もライブ活動と共に、よろしくお願いします、ワンダフル。


鈴木ナオトちょっとだけMC集。

ごろ寝を語る

  • 2013.03.08 Friday
  • 18:00


人間がもし、すべての欲望を満たすことが出来たら最終的にどんな行動を取るかを探ろうとした実験がある。
好きな時に好きなだけ食べさせ、遊びたい時に遊びたいだけ遊ばせ、エッチしたい時に好きなだけセックスをさせ、ちょっと仕事をしたい時には仕事をさせる。そうやって好き勝手やりたいようにさせておいた結果、最終的に人がとった行動とは何か。

それは「ごろ寝」だったそうだ。

その「ごろ寝」が何を意味するのか、その捉え方は個々に違うのだろうし、最終的にごろ寝をすることが幸せなのか不幸せなのかは、きっとマルコムXにだってジョンレノンにだって、当然安倍首相にだって分からない。それに幸か不幸かはともかくとして、僕だってごろ寝は好きだ。
サラサラとした畳の上、冷たいフローリングの上、緑の芝生の上、プールサイド、ふかふかの布団の中、それは至福のひとときに決まってる。
けれども仮に、好きなだけごろ寝が許されて、それが出来る環境下に置かれたとしても、そのような過ごし方をした先に何が待っているのかは、昔のアジア放浪時代に身を持って知ったし、見つけてきたつもりだ。

責任なんて負いたくない、オレは自由でいたいんだ、と誰かが言う。
責任を背負ってみたい、それでこそやりがいがある、と誰かが言う。
あまり物分かりの良すぎる大人になんてなりたくないが、どちらも分かる。
自分はといえば、今だって充分過ぎるほど自由だ。しょうがねぇなアイツは、と言ってくれる人たちが傍にいるからこそ、僕は自由であることを楽しめている。でも実は、その自由というのは自らが両翼の翼を持って羽ばたいているのではない。
なぜならそのぶんその影で、身近な誰かが片翼となって自分を支えてくれていることが多分にあるからだ。

もし自分の自由というモノが、誰の関与も存在しない自由ならば、きっと誰にも迷惑は掛からないかもしれないし、誰にも心配を掛けさせずに済むかもしれない。
けれども誰も関与しない、誰も介入してこない自由というのはひどく寂しいモノで、いくらでも自由であることが逆に、やがては自分から本当の意味での自由を奪ってゆくことになりかねない。

幸せであることがほどほどに退屈であるように、自由であることも、刺激的なことも、それが長く続けば退屈になる。だから我々はいろいろなモノを食べたがる。甘いモノに目がない人だって、いつまでもずっと甘いモノを食べ続けているはずなどないのだ。
世界中の人たちがもし日本人と同じような暮らしをしたら地球の資源は三カ月で尽きる、と言われているくらい、我々日本人は世界的に見てもとても幸せで、そして恵まれているよね。
もちろん現実を見れば額面通りにはいかないこともあって、みんな人それぞれ大変で、人それぞれ大きな偏りがあるのも事実だけれども、それでも我々は充分に恵まれている。

そして見てみろ、オレはこんなにも自由だ!

いつでも逢えるから、そんなことを考えて、なおざりにしていたたくさんのことに後悔して、僕は一年ぶん泣いた。だっていつでもそうやって、ごめんごめん、と言いながら僕らは笑ってきたし、それが当たり前のように続くと思っていたからだ。
こんな時にどうしてお腹なんて空くんだろう、と自分を責めてもみたけど、今日も家に帰ればビールを呑むのだろうし、明日もしっかりご飯を食べて、そして友だちに逢えばいつものようにきっと笑う。
それは失礼なことでも不謹慎なことでもない。
それが生きる力。それが逞しさだと思っているからだ。
今は、悲しいのかな、いや、どちらかといえば悔しくてたまらないや。
ただ、ばかやろう!って言いたいね、彼女にも、自分にも。

でも僕はこうして生きている。
自由に生きているのなら何をすればいい。
生きているのなら何処へ向かえばいい。
生きているのなら何を発言すればいい。
生きているのなら何を持てばいい。
こんなにも選択肢があることに、むしろオレは生きている喜びを噛み締めているぞ、ばかやろうが!

斎場を出ると空気も空も澄んでいて、梅の花が夕陽を浴びていた。
あぁ、こんなにも世界はキレイなのに、って、また涙が出た。
生の儚さを知ったからこそ、生きてるって、何て素晴らしいことなんだろうってね。

だから諸君!そしてオレよ!
無為にごろ寝なんてしている暇は無いのだぞ!

桜女と梅女を語る

  • 2013.03.06 Wednesday
  • 18:20


数日前に春の嵐が吹き荒れて、街を歩く女の子のスカートがあちこちではためく平和な光景を目にした日を境に、春がすぐそこまでやってきた。
もしかしたらそんな平和な光景の影では、ひた隠しにしていたカツラがすっ飛んで悲惨なことになってしまったおじさんたちもいるのではないか、と思うとそれは気の毒な気もするが、それはすべて春の珍事ということにして、それよりもこの花粉をどうにかしてくれ。

何にしても日本は素晴らしい。
地球が一周回る間にきちんと四季が巡り、その都度旬な食べ物が市場やスーパーマーケットに並び、風の匂いだって変わってくる。風流。まさに日本の風土そのものが、季節折々風流を体現してくれている。

そして今か今かと春を待ちわびていたか、この連日の陽気と今日の暖かな陽気のおかげで梅の花があちこちに咲き始めた。あと一ヶ月もすれば、圧倒的な美しさを誇る桜が町の主役に躍り出て、それに伴うようにして町にパッパラパーも増えるのだろうがまぁそれはいいとして、梅は春へと向かう前奏曲のような花。そして梅は桜と比べればどこか謙虚なイメージがあるとはいえ、香りも良くて色とりどりでありながら、その控えめな佇まいが好きだ。そして桜に比べて花の寿命が長いのもいい。

なるほど、、、派手なイメージの桜に対して、謙虚なイメージの梅。
これを派手な女と謙虚な女、というふうに例えて考えてみたらどうなるだろう。

男にとってのいい女とは、どこか派手な部分や妖艶な部分を持ち合わせている反面、その多くが悪い女だったりすること多々なのだが、派手な女というのはどこか飽きっぽいというか惚れっぽいというか、パッと好きになってパッと冷める、みたいなイメージがある。
でも人の目を引くし、何と言っても華やかだ。だが派手なモノは長く見ていれば飽きるし飽きられるので、きっとすぐに散ってしまうぐらいがちょうどいいのだと思う。
だからこれを“桜女”とでも名付けてみる。

その点謙虚な女はどうだろうか。
どんなに本質的な魅力を持ち備えていようと、謙虚な女はどこまでも控えめであまり目立たないので、桜のようにすぐに散ってしまっては誰にも気付いてもらえない。
なので長く咲き続けることによってその存在に気付いてもらう必要があるというか、必要に応じて派手な女には無いしぶとさや強さを内に秘めている。
これを“梅女”とでも名付けてみる。

何だかまた話が無理のある展開へ流れてきたような気がするが、もう少し続けてもいいだろうか。

桜の木には毛虫が付く。
それはきっと、桜のあまりの美しさに嫉妬した梅が、その美しさをほんのりジャマしてやろうとして付けたのだと思う。

梅の木は梅の実を付ける。
それはきっと、それだけでは何か足りないから、と、あの酸っぱい実を作らせたのだと思う。
でも所詮イメージはダメージなので、本当に梅が謙虚なのかと言えばそんなことはない。梅は梅で充分過ぎるほど美しい。

そうか、、、
もう少し続けてもいいだろうか。

惚れっぽい桜女とパッとヤッたまでは良かったが、パッと簡単に他の男に乗り換えられて嫉妬で頭がおかしくなりそうになったり、控えめな梅女とヤッたまではよかったが、それまでは苗字の「さん付け」で呼ばれていたのに、終わった途端にいきなり名前の「ちゃん付け」で呼ばれてどこか心が重たくなったり、桜女も梅女も、どちらにないモノを持っている。
そしてそんな桜女や梅女に、男はいつも翻弄される情けない生き物である。

なんだ、やっぱりそういうことか。

そんなわけで、やっぱり話が無理やりな展開になってきたのでこの辺で終わりにしたいと思う。

来週十四日の木曜日は代々木laboにて、SACHIOくんのお誘いで、ホワイトデーは俺に任せろ!〜愛のお返し大作戦!〜というイベントに出演させて頂きますが、これが愛のお返しではなく、愛のしっぺ返しにならないことを願うばかりである。
それは大作戦でも何でもない。
そんなのはただの大陰謀だ。

何はともあれ、香り高く咲き誇る梅たちにしばらくは目と鼻を委ねようではいか、ワンダフル。

シンパシーを語る

  • 2013.03.06 Wednesday
  • 04:30


自分が今までお世話になった人たち、今の自分を取り巻く環境の中で感謝している人たちというのは数え切れないほどいて、その中でも始まりのきっかけを作ってくれた人や、自分が浮上するきっかけを与えてくれた人のことを僕は今だって、一度だって忘れたことはない。
あの人がいなければオレは今ここにいれなかったな、あの時出逢っていなければ、オレはまた違った日々を過ごしていたのかもしれないな、人生とはそんな出来事や想いの連続である。
定年までサラリーマンを全うしようと決めていたのに、ある人との出逢いから脱サラして独立してしまったり、長く付き合った恋人といつか結婚するものだと信じ切って一緒にいたのに、ある日何となく立ち寄った店で知り合った相手とビビッときてしまい、その相手とスピード結婚してみたり。
そんなことが本当に、本当にそこかしこで起きているのが、誰も解明も説明も出来ぬ人生の摩訶不思議だったりする。

そういう時、そうした出逢いが自分にとって良かったのか悪かったのかなんて、そんなことを考えてはいけない。
それは間違いなく、それは間違いなく良かったに決まってるのだ。
だからこそ、そんな人たちには感謝の気持ちを言葉だけで伝えて終わらせてしまうのではなく、今も親しくさせてもらえているからこそ、何か形あるモノを返したい、と考える。

けれども言葉では足りず形あるモノとなると、当然「モノ」しかないワケだが「モノ」を買うにも相手の趣味と合わなかったらどうしよう、とか、もしすでに持っていたらどうしよう、などの思考が頭をグルグルと巡って必要以上に慎重になってしまったりして、その度に、これじゃまるで告白前の乙女のようだな、とひどくもどかしい気持ちになったりして。

しかしそれ以前の問題、つまり先立つモノが無い場合はどうすればいいのか。
「金の切れ目は縁の切れ目」とは先人さんたちは上手いことを言ったもので、悔しいかなそれはその通り。
この世の中、金が無くなると縁が薄くなるモノがたくさんあることに辟易としつつ、まったくその通りだなと、今自分がいい歳になってしまったからこそ、尚更その痛みが増す。

自分の与えられるモノが自分自身の時間を捧げるようなことであれば、それは幾らでも捧げられるし、それを後から取り返すことなど自分次第でどうにでもなるのだが、冒頭で述べたような人たちに対して感謝の気持ちを形にしたい時、先立つモノが無いが為に気持ちを表せられないままでいるのは、まったくもって不徳の致すところであり、自らの甲斐性の無さにただただ情けなくなるばかりである。

本当は、言葉なんて信用していない。
言葉を信用出来る瞬間は、その言葉の奥にあるシンパシーを感じたり見つけることが出来た時のみなのだ。
今自分が発する言葉にどれくらいのシンパシーを込めて相手に伝えられているのか。それはもはや言葉の力云々の話ではなく、言葉を交わす人間同士の信頼が問われる瞬間なのではないか、と最近はひしひしと感じている。

そんな時、僕の中で誰かがそっと耳打ちする。

「感謝は分かったから。だからもうそろそろ、お前の答えを見せてくれよ」

これは決して、これは決して夜中の戯言なんかではない。

見栄を語る

  • 2013.03.05 Tuesday
  • 06:10


唐突ながら、僕は見栄っ張りのええかっこしいだ。僕のいったいどんなところが見栄っ張りなのか、それを言ってしまってはネタバレになってしまうので、さすがにここで明かすワケにはいかないが、とにかく自分という人間がいかに見栄っ張りなのかは、自分自身がよく知っている。
ただそれは見栄を張ろうと頑張っているのではなく、それが自然というか、自分ではそれを見栄とは思っていない。けれども世間一般的に言えば、それは見栄というカテゴリーに入るものなんだろう、と憶測して、自分のことを見栄っ張りと公言してみる。

そんなことを考えていたら、かつてよく通っていた飲み屋のマスターの言葉をふと思い出した。
ある夜のこと 、酒に酔った僕は、カウンターの中にいるマスターに向かって、
「マスター、オレね、すごい見栄っ張りな男なんですよ、悲しくなっちゃうくらい」
と言うと、マスターはカウンター越しにグラス酒を口にしながら、
「見栄っ張り、いいじゃないですか」
と笑みをたたえながらそう言うと、その言葉の意味をうまく理解出来ていない表情を浮かべていたのであろう僕に向かってこう続けた。

「僕は嘘つきは嫌いですけど、僕だって見栄っ張りですよ。でも見栄を張るのはそこへ向かおうとしている姿勢があるから張るんじゃないかな」
僕はマスターのそんな言葉を聞いて、いやいや、オレの場合はそんなたいしたもんじゃないんですよ、と正直に言ってはみたが、なるほど、この人はいいことを言うなと、思わず呼吸を止めて考える。
そこへ向かおうとする姿勢があるから見栄を張る、か、、、。
確かにそういうことなのかもしれない。
何の為に人は見栄を張るのか、と考えれば、その理由はいくらでもあると思うが、見栄を張ることで楽になることはあっても、見栄を張ることで苦しくなることは今まで無かったように思ったからだった。

「でも最近はそういうのヤメようと思うんですよ、苦しい時は苦しい、キツイ時はキツイってちゃんと言おうと思って、親しい人たちには」
「あぁいいんですよそれで!言わなきゃダメですよ」
マスターが笑う。

知らぬ間に雨が降った今夜、僕のスタジオの裏口をノックする音が聞こえて扉を開けてみると、近所に住むギタリストのちかちゃんこと近沢くんが、ダウンジャケットのフードを頭にすっぽりかぶった上に、まるで酔っ払ったサラリーマンがネクタイでそうするように、何故か頭にマフラーを巻いた滑稽な姿で立っていた。

「なにそれ?なにやってんの?」
「いやいや、てっきりボイスタの入り口が開いているかと思って、わざわざ近くに来て頭に巻き直したのにシャッター閉まってるし!ただの変な人じゃないですかオレ!」
「ちかちゃんはいつも何かしら笑いを取ろうとしてくれるなぁ」
ははは、と僕らは笑う。
(何の為にそんなことをしているのだ、とも思うが、そんな近沢くんが好きだ)

見栄のつもりがただの痩せ我慢になる前に、僕はもっと素直になろう。
今夜近沢くんが持ってきてくれたビールもご馳走になってしまおう。
女の子に奢ってもらうことも恥ではなく、それは光栄なことだと思うようにしよう。

それぞれの相手の心遣いに感謝しながら、こうしていつも通り笑って手を振って別れる。
それぞれの相手の気持ちに感謝しながら、素直になれる日を待っている。

待っているのは誰だ。
待たせているのは誰だ。

本当はそんなこと、ちょっぴりくらいは知っている。

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